籠められた大石寺三箇の重宝


白蓮阿闍梨日興上人は正慶二年(1333)二月七日、後入滅に先立ち
門下が守るべき絶対の条件を言い残されたのであります。


その内容は興師の本弟子六人の内、当時の生存者、日善・日仙・
日目の三師の承判のもとに、今に伝えられています。


それには、




         日蓮聖人御影竝御下文 園城寺申状


上野の六人の老僧方 巡に守護し奉る可し 但し 本門寺建立の時
は本堂に納め奉る可し

此の条 日興上人の仰せに依って支配奉る事此の如し
此の旨に背き異を成し 義を失たらん輩者 永く大謗法成る可し

仍誡之状件如し

     正慶ニ年癸酉
     二月二十三日


                    日善(花押)
                    日仙(花押)
                    日目(花押)




本状の正本の内、一通は現在、日蓮正宗大石寺に保存されており

         「日興上人御遺跡の事」


の表題を以って発表されております。
その要点は


  一、日蓮大聖人御影
  一、御下文
  一、園城寺申状


この三点の取り扱方であり本門寺建立の時迄は上野六人の老僧達が
責任を以って守護し、建立の後は本門寺本堂に納め奉るべし。

此の定めに背く者や、此の定めに異議を申し立てる者は大謗法であ
り永く門下から追放する、、。

との文意であります。


此の富士門流の宗義の三大事とも言うべき


  「日蓮大聖人御影」・「御下文」・「園城寺申状」


が現在どの様になっているのか日興上人門流の正嫡と自称している
富士門流の各本山では此の肝心要に口を噤み枝葉末節の論を以って
各々がその門流を主張しているのであります。


此の富士門流の正統を示す


             『三箇の重宝』


について現大石寺の法主であられた堀日亨師は「富士日興上人詳伝
(上)」の第三章第四節、「戒壇本尊奉受および禁庭への奏上」の
項で


「下し文を賜る。まことに一宗の美目たり。
 当時、これを趙壁魔尼珠と珍重して興上滅後、上野六老に巡守せ
 しめしが目師滅後、幾許もなく日代系の仁において申状の案およ
 び下し文おも紛失したるがごとく、その空篋を保存するのみ。

 惜しいかな、興門の大瑕瑾、一宗の大恨事なり、願わくは、
 ニ箇相承とともに冥護せられて優曇華の出現を祈るや切なり」


と一方的に日代系即ち西山本門寺の系統の僧が紛失したなどという
無責任な論を述べておられる。


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堀日亨師が此の様な結論を出された原因の根本は現在の大石寺の
創立者、日精師が京都要法寺の門流の出であるという特殊な事情が
存在していたのであります。そして、京都要法寺は西山を富士門の
正統と捉えていたのであります。


その様な歴史的経過の中で堀日亨師は西山・本門寺を富士門の正統
本門寺と捉え違えたところにその原因があるのです。


故に現大石寺では疑筆である下記の文書を講師の真蹟として

        「日蓮正宗歴代法主全書」
           (p132)

に「日代置状」として収録しているのであります。


_________________________________


聖人御門徒 各別 事者依 法門邪正本迹之諍也 日興之遺跡等
法門異議之時者雖 諍 是非 以 世事之遺恨不 可 挟 偏執
蹴 中於日代者 在家出家共 如 日興可被思食候 門徒為
存知置状如件


               嘉暦ニ年九月十八日
                    日興判



_____________________________________



この正筆の現存しない文書が述べる様に興師の意思であったとする
ならば文に


「日代に於て者 在家出家共に日興の如く思食せ」


とあり、その法脈は日興・日代と相承したのであって現大石寺の言
う「日興・日目」の流は閏統という事になってしまうのであります。


現大石寺は此の日興・日代の法脈を過去に故あるものと捉えていた
が為に堀日亨師は西山系で日助に仮託して捏造された




「此の三の重宝は故上の御遺言により上野老僧日目・日仙・日善三
人大石寺に於いて三十日を十日番に守護し奉る処 日目は故上の置
状に違背し日仙は天目一同の義なり

仍て日善一人許さるべき由衆檀評定し了ぬ

其後日善の計らひとして上野の惣領南条五朗左衛門尉に之を預け置
き畢んぬ  絶工の重宝は時長取り籠めて之を出さず

今国方沙汰に及び残らず之を取り本門寺の重宝たるべきなり、仍て
存知の為に置き状件の如し


                    延文元年十月七日
                      日助 在り判 」




なる文書を取り上げ、次に紹介する様な解説をしているのであります。




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「西山本門寺中古の写本によるが、文面不可解の点多々なれども、
みだりに放置すべき文献にあらず、大いに宗史に参考に供すべく
検討を要するが、いまは単に


     「御下し文」および「園城寺申状」を


重宝として扱いたる例証に引くのみである。
ただし、『目師が興師の置状に違背す』とは、いずれの置状または
何の文なりや。


二月(三師誡状)より十月の西上(天奏のため)まではようやく八
ヶ月の短期であり、仙師がニ品読誦問題で西下せられしは、十二ヶ
月の後であることは史実としても、時すでに道師郷師の事故、南条
家の両立におよび、正慶ニ年より延文元年(本書記年)までは、二
十四年にまたがり、


大石小泉問題(富士宗学要集第九巻資料聚三十五ページ以下)の
ほかに、なんらの文献もなきに研究困難であり 「その預かり状歴
然なり」 と記してあれど、いまはその伝写本すら影が見えぬ。


また、この御影が大石寺御影(いま房山にある)なりや、東光寺
御影と伝承せられたものなりや、これまた不明であるが、西山本門
寺では関係文献はさらにない。




(伝説資料)『本尊問答抄』の奥書

本抄は文亀三年日向にて日要の講を日杲の聞書なり 今の奥は日杲
なりや否やを知らず。

大石寺三箇の大事とは
一、御影像
一、園城寺申状
一、御下し文  

なり 今は東台がいと(垣内)《富士上野上条の東光寺なり》に
之有り。


これによれば、文亀三年ころには「申状」と「御下し文」とが正し
東光寺にあったようで、この時代の東光寺は西山本門寺に重大関係
があったと思われる(今は北山本門寺末寺なれども)

しからば、このニ文書はまったく西山系でいずれの時代か紛失して
現今は空篋のみが存在しておるのであり、『弘安五年御下文』の七
字がいつとなしに抹消せられたのも、かかる共同燐山の不体裁の因
縁とそれに即離の関係らしき石泉関係のためであろうと推察せられ
んでもない」



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この堀日亨師の推論はこの論を冷静に読めば言うところの全てが非
論理的で無理であることは明らかであります。


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即ち、推論の根本資料とした「日助文献」は堀師本人が言う様に
「文面不可解」で、その内容の「証状」に関して

       「伝写本すら影が見えぬ」

のであり、『本尊問答抄』の奥書については

     「今の奥は日杲なりや否やを知らず」


と述べ、奥書が加えられた時代を特定していないのであります。


即ち、文亀三年書写の『本尊問答抄』の奥書にその様に書かれてい
るという事のみが事実なのであります。


では『本尊問答抄』に示す大石寺三箇の大事を秘めた

      「東台がいと=東光寺」


とは堀日亨師がいうように「富士上野上条」に現存する「東光寺」
なのでしょうか。


現大石寺で三十一世に数える日因師が『有師物語聴聞抄佳跡』(富
士宗学要集一巻所収)に紹介する「大泉寺」の建立者が小野寺左京
であることは、現在大泉寺に残されている資料で明らかであります。


此の大泉寺について日因師は

「彼ノ宗義此ノ(日蓮法華)宗旨を談ス 曰く 彼ノ僧 信仰ノ意
ヲ生スモ彼ノ寺は武田信玄公の祈願所なり(中略)又吾祖(日蓮大
聖人)ノ聖教多之ヲ有す

謂ク 金泥の法華経一部延山より信玄公之を取り納メ置クなり
御書(日蓮大聖人)多ク之有る皆是信玄公之を聚め納むるなり」



と記し日蓮正宗大石寺五十六世の大石日応師は「辧惑観心抄」の中


「其当時乱離ノ世ニ乗シ身延ノ郡徒来テ戒壇ノ本尊及ヒ其ノ他ノ緒
霊宝を鹵掠セントスルノ説アルニ仍テ日有計テ真ノ本尊及ヒ諸霊宝
ヲハ駿東郡東井出村井出某氏の穴ニ蔵シ(此家子孫于今連綿シ村内
一ノ舊家今家主ヲ弥平次ト号ス此の穴于今存シテ御穴ト称シ常ニ香
花ヲキョウスト云々)日有彫刻ノ本尊ヲ仮立シテ且ツ戒壇ノ本尊ニ擬セ
シナリ」


と仰せられております。



此の五十六世の日応師の仰せに対して五十九世の日亨師は「日興上
人詳伝」の大五節、「身延離山の道程」の中で次の様に否定されて
いるのですが、此の否定は真実の大石寺の歴史に照らして当を得た
ものでありましょうか。


即ち、日亨師の論に依れば

「本尊御影返し給わるべきの由等とは、またこれなんらの文拠もな
く、まったく精師の憶測であり、延山側の文献にいささかもこれに
触れたるものがない。

富士の僧俗の信念と身延の衆檀の思嚮とが別途であることに気がつ
かず、おのれをもって他を測られた過ちであろう」、、と



先ず此の日亨師の論評は「辧惑観心抄」で言う身延を甲斐の身延と
捉えた所から生じた誤りで此の所で言う身延とは甲州の身延山久遠
寺を移転したという小泉の久遠寺の事であります。


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次いで堀師は同書に

「これは本師ばかりでなく、ここに加上した伝説が、今から二百年
 くらい前に、『家中抄』以後百年後ぐらいに出来しておる。
 駿河国駿東郡井出の御穴それである。

 身延山が波木井一家を総動員して大石寺の戒壇本尊を略奪に来る
 風聞で、大石では南条一家総がかりでこれを防ぎ止めた云々との
 文献があるといえる御僧があったからその書を請求したが見せて
 くれずに死亡した。

 また『家中抄』の『日主上人伝』に、『其の比、身延の僧円来坊
 板本尊を盗み取らんと欲して主師を傾く、茲に因て隠居して金井
 に到る』とも書いてあるが浮説であろう。

 ただし小金井運行寺に移られた原因は他にある。
 日有上人時代には身延の波木井家(本家が八戸に移りし後)が
 衰微し、上野の南条家もまたふるわず、たがいに百、二百の軍勢
 を繰り出すほどの力はない。

 また波木井家の末孫が興国寺城(駿東郡井出に近し)攻めに加わ
 りて戦士したことが身延の過去帳にあるとのことなれば、あるい
 は前のはこれと混説したのかもしれぬ。

 ただし、また御穴のことは武田信玄時代であるといっておる。
 井出某の屋敷内に御穴といって信徒詣でる時代があった。(明治
 年中まで)

 その御穴に隠匿して盗難を防ぐこと長かりしかば、本山では御身
 代わりと称して、日有上人代御彫刻の紫宸殿本尊を安置したとも
 いうが、御写の年代も異にして、大聖の授与書もなく、有師より
 日伝に授与したもので、また、だいぶ小形のものである。

 その幾年かの間に、穴中の湿気のために四隅が朽欠したるを雲形
 をもって巧みに隠してあり、ともいっており裏に種々の縁起が彫
 刻されてあると、真実しやかに密告する役僧があったので、自分
 が貫主代に役僧を立ち合わせて密査したのに、以上の伝説は真っ
 赤な虚説であり、全面堅石のごとき楠板で少しの暇瑾もない。

 これをもって房州系の古記に建武初年の争いに、大石寺が正御影
 を持ち出す時、戒壇本尊に手を掛けたが、大石の大衆、鎹を打っ
 ていたから持ち出せなかったと書いてをる。

 これは例の日我以後の記であるから、信を措けなかったが、これ
 も拝見の序でに虚説が顕れた。
 以上の馬鹿気た伝説は、、、」



と言われているのだが本当に此の現大石寺に伝わる伝説は堀日亨師
が言うように馬鹿気た伝説なのでありましょうか。


此の伝説こそ本当の大石寺史の真実を伝えているのではないでしょ
うか。


何故ならば本来大石寺に伝えていなければならない

        「三箇の重宝」

の一つだに現大石寺には伝えられていないのであります。


また三箇の重宝紛失の確固とした事情も現大石寺には伝えていず、
三箇の重宝紛失に関するものとしては此の伝説以外には全く伝えて
はいないのであります。



何れが真実なのでありましょうか。


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私が発見した「本因妙大本尊」様は、現大石寺の伝説の如く

「四隅が欠朽。雲形を以って処置の残姿が一部残され、そして裏に
 造立開眼の銘文」


が刻まれて在りました。


この問題に決着を付ける為には「大石寺三箇の重宝」を伝えている
と保田妙本寺(小泉久遠寺)等が言い堀日亨師もそれを認めた

           「東台がいと」

とは何を示しているのかを知らねば堀日亨師の言う「文亀三年頃に
は【申状】と【御下文】とが正しく東光寺にあった」


と言われる意味を理解する事は出来ないのであります。


実は此の「東光寺」は堀日亨師が言う上野上条の東光寺ではない事
は堀師御自身が知っておられたはずであります。


即ち、この「東台がいと」とは正統大石寺の東の方位に当たる駿東
郡根小屋の地形的条件を「東台崖戸」と称したのであり、そこに
曽って存在した寺が問題の「東光寺」なのであります。


此の東光寺とは応仁の乱の西陣南帝弘慶(入道号 小野寺)が幕府
に依って明応八年三島(浮島)に遷幸され建立した黒木御所が東光
寺であります。


そして江戸幕府の三超院弾圧に依って破却され重宝の全ては東井出
に移され天明の頃小野寺左京に依って士詠山大泉寺とともに重興さ
れ大泉寺の末寺とされた寺院なのであります。


此の東光寺の境内の裏に真実の 「井出の御穴」 は存在していた
のであります。


「井出の御穴」が存在していた東光寺の崖戸を此の地方では昔

          「カンポス谷戸」

とも称し「井出のかんぽすと根古やの城はいけよいけよの声がする」
と俗謡にも詠われていたのであります。


「カンポス」とは正しくは「貫法洞」(かんぽす)なのであり、
それは


            「法を貫く御穴」


という事なのでありました。


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調査以来三年ぶりに小野寺家の記録と富士在住の静岡県文化財調査
委員山口稔氏の調査協力に依ってようやくその場所が確認できたの
であります。


現地に行って見るとそこには以前には存在していなかった旧東光寺
墓所改葬の石碑が大泉寺関係者の手で建立されておりました。


即ち現大石寺の伝説の「井出の御穴」には「大本尊」ばかりでなく

       「大石寺三箇の重宝」である

    「日蓮大聖人御影・御下文・園城寺申状」


その他日蓮大聖人の真筆御書の多数が幕末迄で日目上人の御産舘
小野寺氏に依って厳重に保存されていた事実が明らかとなったので
あります。


では何故此の地に正統大石寺の重宝が隠し込められたのかその事情
を正しく知る為には南北両朝の抗争を知らなければなりません。


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後醍醐天皇は醍醐天皇の延喜(901〜930)の治より久しく途絶えて
いた天皇親政を念願とされ密かに倒幕の好機を窺がい、その準備に
余念無く元弘三年(1323)日野資朝を関東に下し味方を募られたの
であります。


時代の状況は日蓮大聖人が『法華取要抄』に



「天瞋るは人に失有ればなり 二の日並び出るは一国に二の国王並
 ぶ相なり 王と王との闘諍なり 
 星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり 日と日と競い出るは四天
 下一 同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり 
 是の如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之
 を建立し一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん
 者か」



と仰せの如く世情は成りつつ在ったのであります。


奈良、春日大社に伝える元亨元年(1321)三月十二日の後醍醐天皇
の綸旨には





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    ※ 綸旨の内容は


  「世界を救う一閻浮提の大本尊立つ・日蓮法華経の正統解釈」

             p142を参照




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此の綸旨は大聖人が仰せの 「明星並び出る」 の現象が此の年に
生じた事を  


        「今年二星合連月三个度」


と示しております。


後醍醐天皇が 「革命の厄年」 と考え 「皇朝之安全」を願われ
たのに対して後嵯峨天皇の御遺詔の


「一の御子後深草院即位あるべし 下居(退位)の後は長講堂領
 百八十箇所を御領として御子孫永く在位の望を止めらるべし
 次に二の御子亀山院即位ありて御治世は累代敢えて断絶あるべか
 らず」  (梅松論)


に違背して即位された伏見天皇の子、後伏見上皇が
 「石清水八幡宮」 へ奉納の願文に



「これ元亨元年かのととり十月四日きのえたつよき日よき時に
 かけまくもかしこきいはし水のくわう大神のひろまえに おそれ
 みおそれみも申たまハくと申

 胤仁 わか神のなかれをうけて あまつ日つきいまにたへす
 
 そ王(後深草院)のしゃうちゃくとして てんしのくらいをふむ

          (中略)

 ことしハふるきをあらためて あたらしきをたつへきてんうんな
 り  このときにあたりて うんをひら(開)かんとおもう

 一念のうれえ猶てんとう(天道)にたっす
 いはんや念念のうらみおや
 一身のうれえ猶神のききをとろ(驚)かす

 いわにゃそ(祖)王(後深草院) せん(先)王(伏見院)の
 おん(怨)ねむ(念)おや

 すてにつけひ(使)をとう(東)くわん(関)につかハして
 思ところをのへんとす  (以下略)」


と幕府の力を借り後醍醐天皇の正統皇位を奪い取らんと謀事を実行
に移しつつ在ったのであります。


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即ち、大聖人が


「二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり 王と王との闘諍
 なり」


の御予言通りであり、また、こうした結果十年後の元徳三年(1331)
には後醍醐天皇と光厳天皇が並び立つと云う事態が成立したのであ
ります。


それはさておいて関東に下った日野資朝は小野寺党に対して後醍醐
天皇への勧誘の条件として、後醍醐天皇の親政が成った時には


          『富士山本門寺』


を勅許すると云う密約を与えたのであります。


この約束故に元亨三年(1323)日目上人は『牒状』を認められて
入洛したのであります。


この時、朝廷では『牒状』の内容を天台法華の寺門派の総本山、
園城寺(通称、三井寺)の僧綱に検討を命じ、その結果『牒状』
の内容に誤りが存在し無いという事を確認の上『牒状』は後醍醐
天皇に上聞され


            『綸旨』が


日目のもとに下されたのであります。故にこの『牒状』を富士門で
は特別に


           『園城寺申状』


と呼ぶのであります。


此の『園城寺申状』に対する天皇の御回答、即ち『綸旨』を


            『下し文』


と称するのであります。


また、此の二通の文献がなぜ『大石寺三箇の重宝』の中に加えられ
たかと申しますと、それは日蓮大聖人の御遺命であられた


           『富士山本門寺』


の勅許を後醍醐天皇が親政なるを条件に内諾された証拠の文であっ
たからなのであります。


故に、この『大石寺三箇の重宝』を正統に所持する者が大石寺正統
の血脈相承者である事は正慶二年(1333)の日興上人の仰せに依っ
も明らか成る所であります。


延(ひ)いて云わば即『富士山本門寺』の法主ということなのであ
ります。


後醍醐天皇の『綸旨』が八月二十一日に下された事に関しては元亨
四年(1324)十二月二十九日の日興上人筆、保田妙本寺蔵の曼荼羅
の添書きに


       「最前上奏の仁、卿阿闍梨日目」


と認められている事に依っても明らかな事であります。


また、この元亨四年八月の天奏が富士門流最初の天奏であったこと
も正慶元年(1332)十一月三日の日興上人筆、富士大石寺蔵の曼荼
羅の添書に


「最初上奏の仁 新田阿日目に之を授与す 一が中の一の弟子なり」


と在ることに依っても認められます。


覇権者が支配する封建体制の時代に於いては此の 『下し文』 を
賜らなければ 『富士山本門寺』 は絶対成立し得ないのであります。
なぜならば宗旨の許認可は天皇の大権に属していたからであります。


故に此の『下し文』は封建体制下の大石寺にとってなくてはならな
い絶対の重宝だったのであります。


しかし乍ら後醍醐天皇の天皇親政の動きは持妙院統の後伏見上皇の
幕府に対する訴えによって幕府の密かに監視する所となり元亨四年
九月十九日 「当今御謀反」 の名のもとに終えたのであります。


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本来ならば日目上人のお手紙(京都・住本寺蔵)に


「何事にてや候やらん  すへてこれにはうけ(受)給はらず候
 よによにうけ給たく存候

 みめ□□よろこひ入候てふし(富士)へわた(渡)て候

 九月廿八 九日には てんちゃう(天朝=後醍醐天皇)ふし
 (富士)へのほ(登)り候へく候

 三郎入道とののもとへも ふし(富士)へも御ふみ(文)候へは
 給候て心遣まいらせ候へく候

 の(延)び候とも月あいにはすき(過)ましく候 


            恐々謹言

      八月廿一日   をさとの御返事

                  日目  」



と認められており、後に、「正中の変」と称される此の事件が
後醍醐天皇の願いの如く成就していたとするならば此の年の九月の
終わり頃には後醍醐天皇は富士に至り、『富士山本門寺』は勅許を
以って此の時に完成を見た訳でありますが、結果は後醍醐天皇のこ
の統幕の挙兵は幕府方の知る処と成って失敗に終わってしまったの
であります。


この後、後醍醐天皇は隠岐の島への遷幸を経て元弘三年(1333)
六月五日、念願を果たされ天皇親政の権を握られたのであります。


此処に嘉暦三年の『綸旨』を以って日目上人に約束された
『富士山本門寺』勅許の勅旨は富士に下ったのであります。


日目上人の甥の日道上人がその一族の大学阿闍梨日盛に宛てた六月
七日の御手紙には勅旨下向の様子を


     「抑今日不 庭客人来臨候 はれかま敷候」


と認められております。


「不 庭客人」とは「庭にあらずまろうど」と読み、その意味する
所は「禁庭」と「勅旨」であります。


このようにして『富士山本門寺』の勅許は後醍醐天皇に依って下さ
れたのであります。

即ち、これを『本門寺義戒壇』と云うのであります。


はぜ、これを『本門寺義戒壇』と云うのかと申しますと、本佛が
本佛として正しい時を捉えての佛勅をもっての建立ではないから
なのであります。


即ち、天皇という覇権者の勅許に依るものであるからなのであり、
義とは、本音に対して「たてまえ」とか「実物のかわり」等の意味
を含むところであります。


当然、「本門寺義戒壇」は、それ故に勅許の覇権者が他の権力を以
って追われる事態が生じた時に、その事蹟は日の目を見ないのは当
然であります。


後醍醐天皇の勅宣に依る『富士山本門寺』が実際に日の目を見る事
に成ったのは勅許より五十七年後、元中九年(1392)の「南北両朝」
の和睦をもってであり、和睦の結果、後醍醐天皇の勅許は再び効力
を持つように成ったのであります。


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こうした結果、応永の年に富士の地に 「富士山本門寺」 が成立
した事は大石寺日影師(俗称・千福小野寺)の応永十九年(1412)
八月時正の筆、陸前上行寺蔵の曼荼羅の添書に


「大石寺遺弟日影六十一 本門寺大衆兵部阿闍梨日□」


と在る事に依って納得できるかと思うのであります。
この 「富士山本門寺」 は南朝を擁立した日目上人の生家の千福
小野寺氏の管理下に在った 「大石寺」 と、北朝、足利氏に加勢
した小野寺氏の一部と南条氏=保田妙本寺=とが南北両朝の和睦を
原因として合体し、その合力に依り後醍醐天皇の建武の勅許のもと
「富士山本門寺」が成立したのであります。


故に大石寺第七世の法主、日影上人は宰相阿闍梨日郷上人の法孫、
兵部阿闍梨日了師に対して 「本門寺大衆」 の添書を認めた曼荼
羅を授与されたのであります。


ところが、此の南北両統の和睦は三十七年を経て再び破れてしまっ
たのであります。


その原因は「和睦」の条件であった「南北両統」が交互に皇位を
継承するという事が一方的に覇権者の足利氏に擁立された北朝方に
依って破られたからであります。


その結果、南朝の後亀山天皇の皇子、小倉宮は北朝の後小松天皇、
称光天皇二代の皇太子として時を過ごし、称光天皇がその皇嗣とし
て後花園を立てるや小倉宮は北畠満雅を頼んで伊勢に逃れ正長元年
(1429)九月の挙兵より、この後、四十年間に亘り激しく抗争を繰
り広げ、応仁元年(1467)の乱に、西軍、南朝方の敗北を以って中
央に於ける南朝勢力は殆ど失われてしまったのであります。


正長の乱以降、本門寺でも南朝支持派(旧大石寺系)と北朝支持派
(旧保田派)とが分立し論争を繰り返したのであります。


特に文明六年(南朝の明応六年)千福小野寺中務少輔は南朝方に味
方して挙兵し同年閏五月、越前国に足利義政の命を受けた朝倉孝景
の勢に討たれ、その結果、富士門流の中での南朝支持派は全く力を
失ってしまったのであります。


こうした状況の中で北朝方の駿河の大名、今川氏の援助を受けた日
要は本門寺日要と名乗って明応八年(1478)三月、北朝の後土御門
院に奏上して「本門寺日要御坊」の「奉書」を賜ったのであります。


此のことに依って北朝支持派が公然と「本門寺」の寺号を唱えるこ
とができるようになり、南朝支持の大石門流と北朝支持の保田門流
の対立はますます激化し、日要の天奏より四十余年を経た天文五年
(1536)保田門流は今川氏の援助のもとに大石門流が守る本門寺本
堂(富士の上坊ともいう)を焼打ちしてしまったのであります。


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この南朝(公家方)と北朝(武家方)の対立抗争の歴史について
国民の全ては明治の官制教育によって南朝暦の元中九年(北朝暦の
明徳三年・西暦1392)に両朝の和睦が成立しすべての問題が解決し
たと教えられて来たのでありますが、この教育の内容は歴史の真実
を如何程踏まえているのでしょうか。


少なくとも南北両朝の対立抗争は統一国家であった我国が一時的に
分裂国家となったのであります。


実態として国家を統治する政府が二つ成立し、その一つを南朝と称
しもう一方を北朝と後に称するのであって、その時、それぞれの主
体者は自らの政治の価値観に従って同士を募り行政府を設け法律を
布令し人民を従わせしめたのであります。


当時の我国では「寺」等の公許の権限は天皇に在ったのであります。
天皇の勅許を得ずしては公認=法人格=を所得しえなかったのであ
ります。


迹門時代の本門寺は保守政党政府(南朝)より公認=後醍醐天皇の
勅宣=は得たものの、認可した政府は急速に弱体化し挙句の果て、
行政権を失ってしまったのであります。


それに対して武家の主唱した革命政府は日に日に行政権の及ぶ範囲
を拡げて終には国土の九割方に及ぶ迄に成長し、その力の基に「両
統が代わる代わる立つ」という「両統迭立」の契約が成立し元中九
年の和睦が成立したのであります。


ところが革命政府(北朝)はこの契約を履行せず一方的に破棄し、
その結果、永享九年(1437)七月、北朝天皇、後小松院の皇太子
(結果としては後小松院・称光院・後花園院三代に亘る)小倉宮
(招慶院太上天皇)の王子は北朝政府より離脱し、南朝正統亡命
政府を樹立したのであります。


正統亡命政府(後南朝)樹立に至るまでの経過は対立した北朝(武
家私立)で重要な地位を占められた貞成王(後崇光院太上天皇)の
『看聞日記』には元中の和睦以後の南北両朝の対立と抗争のあり様
を次の如く記録しているのであります。



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■応永廿三年(1416)九月十六日の条に

   「南朝法皇(後亀山院)此間吉野郡より出御


■同年十一月九日の条に

   「仍南方近衛息(十二歳)花山一族僧(耕雲 此僧元南方祗
    候 当時花頂辺居住)為猶子相続せしむ云々」


■応永三十年(1423)八月三日の条に

   「相応院御弟子近日御入室あるべく云々 南方宮(上野宮)
    福御所御子云々 抑関東蜂起事」


■同月廿四日の条に

 「関東筑紫兵革蜂起 伊勢国司南方宮取義兵を揚げもうす云々」


■同年十一月廿三日の条に

   「南方宮(上野宮)青侍(号中村)去頃被召捕了 夜前首ば
    刎云々 四条少将隆興朝臣并飛鳥井親類ば召捕


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■永亨元年(1429)九月二十四日の条に

   「先日被召捕楠 今夕於六条河原被刎首」

■同三年(1431)二月二十八日の条に

   「南禅寺方丈海門和尚(南方宮)参来(初参)

■同年十二月五日の条に

   「抑南方姫宮(十七歳玉河殿娘也)今日室町殿へ御参」

■同五年(1433)十一月九日の条に

   「(南方)護正院殿御使安野侍従参 舊院(称光)御事訪奉
    玉河殿御言付同奉」

■同月二十三日の条に

   「崇光院(北朝三代)南方に御座之時 吾御子孫不可有帝位
    之競望之由被遊御告文被出依 其南朝被免申 御帰洛云々

    其御告文 鹿苑院(足利義満)御時自 南朝 被 出
    此出

    此支證舊院(称光) 被 召置之間 以 之室町殿(足利
    義政)へ入 見参 

    崇光院御子孫不 可 有 再興 之由固(三宝院)被申」


■永亨六年(1434)五月十四日の条に

   「御百首又四巻(南方 玉河宮 北畠大納言入道 法性寺
    二位入道 侍従為李) 被下」


■同年八月廿日の条に

   「抑聞 南方 聖護院 両人喝食二被 成申 不可被置
    御遺跡云々

    奉公殿上上人等少々禁裏可被召仕之由 以 日野 内裏へ
    被申云々  凡南方御一流

    於于今可被 断絶云々 喝食 常徳院主海門和尚 鹿苑院
    主等 弟子二被成申云々」

■永亨七年(1435)年八月廿五日の条に

   「抑今日御雑談之次 自 南朝小倉殿 後朱雀院 後三条院
    両代之宸筆御記二合 室町殿(義政)へ被進
    則内裏へ被 進 云々」

■永亨九年(1437)年七月十四日の条に

   「抑聞 大覚寺門主逐電云々 室町殿御連枝也 
    御意不快之間野心之企歟 南方祗候人も逐電云々 為世恐怖

■同月十六日の条に

   「玉川 護正院候人共両三人逐電 依 之彼方様女中共皆逐電
    云々」



とあります。



「看聞日記」には前条に次いでその後の南朝方の動きを


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■同月廿日の条に

   「抑大覚寺門主天王寺落下僧坊一宿 彼坊主相伴被出
    不知行方云々 

    仍彼僧坊追捕 法師一人召捕 管領預置被尋 更不存知
    之由云々 南方宮同御逐電

    叛逆之企露顕歟」


■同月廿三日の条に

   「大覚寺大和隠居小路取申云々 山名宮内小輔御方参
    伊勢国師等合力可上錦旗(南朝挙兵)


■同月丗日の条に

   「抑山名刑部少輔被討云々首上洛


■同月八月三日の条に

   「抑楠兄弟被討云々」


■同月十二月の条に

   「山名金吾謀反」


■永亨十年(1438)九月十六日の条に

   「山名奥州謀反(南朝加勢)之時  錦御旗被新調之由絵所
    云々   然誰人調進哉

    官外記不 存知云々


■嘉吉三年(1443)二月廿日の条に

    「南方小倉殿叛逆之企  大名引合申歟(中略)
     南方事為 事実 者天下大乱」


■同年(1443)五月七日の条に

    「今日南方小倉殿逝去云々」


■同年九月廿三日の条に

   「悪党三十四人許 清涼殿へ乱入(中略)大納言典侍取劔 
    璽 迯出之処 凶徒奪取」


■同年九月廿四日の条に

   「去夜事委細聞 凶徒清涼殿二乱入 先劔 璽奪取(中略)
    抑南方謀反大将号源尊秀 其他日野一位入道与力之悪党
    数百人  

    上下周章仰天之外無也  日野一品禅門謀反意趣何事乎
    息女権典侍禁中祗候

    旁不思儀也 此外公家人同心云々 (不及謂其名)
    山名野心日来風聞之間存内也 細川も同心」


■同月廿六日の条に

   「南方人主と称する人 (法師也)僧躰之宮宮日野一品禅門
    以下凶徒討取 其頭ども上洛 少々は没落云々

    (中略)抑晝程に日野一品禅門 子息右大弁宰相資親卿於
    路頭被召取 家人侍共同搦取」


■同月廿七日の条に

   「日野家人其外朝敵共同搦取」


■同月廿八日の条に

   「資親卿於 六条河原 被刎首 其外召人五十余人被斬
    (南方於 山門 召捕者 日野侍也)


■同月廿九日の条に

   「抑一品禅門首 資親卿首可 被渡之由有 群議


■同年十月二日の条に

   「抑勧修寺門跡へ侍所(所司代) 大勢向 門主坊人等 
    召捕云々」

    此宮(南方)小倉殿息也 同意勿論也 四条中納言参
    体面□□□聞 勧修寺へ所司代寄来之時
    坊人等□□□坊人数輩被斬 門主ハ可被流罪云々」


と記録されています。


即ち、此処に神璽を回復し南朝の正統政権が吉野に再度発足し我朝
の王権を示す



         「神璽」
http://syohnan.jp/magatama.shtml




を巡って抗争は活発化し応仁の乱(1467)に至るのであります。


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当然本門寺は、南朝政府の最高権力者、後醍醐天皇の公許でありま
すから南朝政権が成立しその政権によって建立されることが最も望
ましい訳でありましたが結果としては両朝の和睦という連立の状況
を踏まえて応永(1394〜1428)の年の初めに完成したのであります。


ところが前に示した如く嘉吉三年(1443)和睦は破れ再度、両朝は
対立して抗争に明け暮れる時代となり、本門寺も南北両朝の連立政
権の破錠にともなって再度


        「大石寺」と「妙本寺」


に分裂して相互に対立し、両者とも始めは官権を頼み、復権の抗争
をしていた訳でありますが当然それにはそれ迄の経過が重要は決定
の要素であり、吉野正統政府に永く加担した本門寺は室町幕府の否
定する所であり、幕府の有力大名であった駿河守護、今川氏と結託
した妙本寺方は大石寺(本門寺)方を武力を以って破壊・追放して
しまう暴挙にでたのであります。


これが天文五年(1536)の大納言事件、富士上坊(本門寺本坊)
焼打事件の実態であります。


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