日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見


昭和五十六年の夏「本因妙大本尊」を屏風箱の中の屏風をくり抜
いた中から発見した時、初めの頃は、自分で言うのもおかしいの
ですが半信半疑でした。


何故かというと以前に、(昭和三十八・九年頃)富士の芝川町に
西山本門寺を訪ねた折、貫主の由井日光師が案内して下さった客殿
の脇の「尊霊殿」という近衛文麿氏の筆に成る金文字の額が掲げら
れていた小堂の内陣に北朝の後水尾院や、新広義門院、明治陛下並
びに、


歴代徳川将軍、武田信玄や勝頼の霊牌とともにその中央に
「本因妙大本尊」と相貌が全く同じものが金箔置きの大きな唐獅子
の様な彫り物の上に蓮華台座が置かれ、その上に奉安されていた記
憶があったからであります。


由井師の案内で拝見した時、私は此の「大本尊」の裏に何か銘文で
も彫り込まれていますか、、と尋ねたところ、由井師は

  「ただ、本因妙  とのみ彫られている」

と答えられ、そして


  「これは当山の本尊ではない」

と否定さてたのであります。



私は不思議に思い

「では西山本門寺の御本尊はいずこにあられるのですか」
と問い質したところ、由井師は   「客殿の正面の重要文化財指定
の『御宮殿』の後ろの方に掛けられているのがそうである」
という答えでした。


由井師の案内で宮殿の裏に回り西山本門寺の御本尊を拝見しましたが
周りが薄暗く、よく拝見できなかったので由井師の承諾のもと、御宮殿
の須弥壇の上に登り蝋燭を近ずけて全体を拝見してみたところ、そこに
掲げられていたのは日蓮大聖人が建治二年(1278)二月五日お認めの
大曼荼羅を板に写し刻んだものであり、それを西山本門寺では

「万年救護本尊」と呼んでいたのであります。


その板曼荼羅本尊には日興上人が大聖人御聖筆曼荼羅に
「本門寺に懸け万年の重宝たるなり。」

と加筆したその文字も彫られていました。


即ち、西山本門寺では日興上人の「本門寺に懸け万年の重宝た
るなり」の添え書きを以って  「万年救護本尊」    と
称していたのであります。


そこで「本因妙大本尊」と同じ相貌をした本尊が他に存在しないかという
ことの調査を行ったところ、同じ相貌のものが日蓮正宗総本山大石寺の
大講堂、東京池袋の日蓮正宗常在寺、甲州身延山久遠寺奥院、伊豆国分寺
に存在していることを知りました。


また日蓮大聖人が紙本にお認めになられたものが千葉県安房郡保田の
日蓮正宗妙本寺に保存されていて、妙本寺の紙本は国指定の重要文化財
になっていることも知りました。


===============================================


そこで、それぞれの寺院の記録から先ずその大本尊が勧請された時代
と縁起を調べて見る事にして調査をしました。


池袋常在寺の板本尊はもと大石寺本門戒壇堂(現在は御影堂と称し
ている)の常住本尊で日精師が

「延宝七年二月二十三日造立」 したものであることがわかりました。



また現在、大石寺講堂に奉安されているものは


「元文五年二月六日」  に大石寺三十世の日忠師の造立に依るも
のであることがわかり、そしてその裏銘文に





一心欲見仏不自借身命 、 在在諸仏土常洪與倶生、、、、 




             (以下略)



(続きは「世界を救う一閻浮提の大本尊立つ・日蓮法華経の正統解釈」
  p79を参照。)





、、、、、、、、と在る事を知り得たのです。






伊豆国分寺のものは、もともと国分寺は蓮興寺と称し井出のお穴屋
敷と深い関わりを持ち井出志摩守に依って造立されたものであるこ
とがわかりました。


そうして大石寺日精師の  『富士門家中見聞の上』(富士宗学要集五巻
p154)には


「又、弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を
日興に授与し給ふ  万年救護の本尊と云つは是なり 日興より又
日目に付属して今房州に在り  

此れ西山に移りうる故に今は西山に在るなり 」



と述べられているではありませんか、、。



まさに、西山のお形木大本尊は種々の点から考えて最も信憑性があ
る様に思われました。


しかし、西山のそれを日蓮大聖人の出世の本懐と決定する為には解決
しなければならない問題が私には二つ存在しました。


一つには、当の西山本門寺で「万年救護の本尊」と称するものは建治
二年二月五日の御聖筆曼荼羅を板に刻んだものであり、その紙本の原
本には日興上人の筆で


「日興か祖父河合入道に之を与え申す 本門寺に懸け万年の重宝たる
なり 」  と加筆され


それに次いで日代師の



「入道の孫油井五郎入道譲り得る所なり  大宅子女の嫡子犬法師に
之を譲り与ふ 」



との加筆がされていてその本質は一機一縁の大曼荼羅である事は明白
であります。



二つには、西山本門寺の貫主である由比日光師が寺山の「尊霊殿」
奉安の「本因妙大本尊」と全く同じ相貌をした大本尊をして

「此れは西山本門寺の本尊ではない」


といわれた事であります。


===============================================


日蓮大聖人を宗祖と仰ぎ、その正統を自認し本門寺と称する寺で
宗祖が「大本尊」と認められたそのものを大本尊と認めず、一機
一縁の大曼荼羅を以って大本尊と定めて本堂の正面に奉安している
事に私は深い疑問を抱きました。


そもそも西山・本門寺は日代師建立の森山に在った寺を移して、
戦国末期に日建師が本門寺と始めて称したのが歴史の事実で、その
関係で尊霊殿奉安の大本尊を西山の本尊ではないと由比日光師が否
定したのかと、私はかん違いしていました。


そして、その理由は暫くたって静岡県文化財調査員で富士市在住の
山口稔氏に会っていろいろなお話をしている内に偶然に西山・本門
寺尊霊殿奉安の大本尊にかかわる話がでてきて其の謎が解けたので
あります。
山口さんの話をまとめて紹介すれば、西山・本門寺尊霊殿の大本尊




「江戸時代の初めの頃、小泉・久遠寺、保田・妙本寺両山の住職に
日濃と称した人がいて檀家と争いを起こし、その訴訟費用を捻出の
為に文永十一年(1274)十二月に身延山中で紙本に認められた



「控え字大本尊」を江戸市中の金貸しに入質して金五百両を借用
した結果、「控え字大本尊」は質流れして売りに出され、それを
西山本門寺の住職が勧進元となり、拠金の寺寺に「控え字大本尊」
を板に摸刻して、勧請せしめる条件で金子を集め質受けした。
その時の質請証文は現在も西山本門寺に保存されている。」

というのが山口さんのお話でした。


由比師は自山の尊霊殿に奉安されている大本尊がこのような事情の
もとに造立されたものである事を知っておられたのです。


故に尊霊殿の大本尊を日蓮大聖人の出世の本懐と認める訳にはいか
なかったのであります。



なお、この日濃事件について日蓮正宗大石寺の堀日亨師は



        「富士宗学要集」(九巻・p245)に



   ( 富士宗学要集の編者は堀日亨師。発行者は池田大作氏。)







「妙本寺日珍と日東との間に小事故あり、日東より訴えて奉行所を
煩わす。





吟味中、日東病死のため未解決にして終わり、後年に至り日濃の代
に日東の復歴を見る。






次いで日濃は村民との間に公事を起こし波紋拡大し惣寺家を相手と
して永く法廷に争い、江戸に別邸を営みてこれに没頭し、其の費用
に寺宝(控字大本尊以下の大曼荼羅及び什器)を典(転の誤字か)
売するの止む無きに至り本山(保田妙本寺)に帰臥する能はず 山城
燈明寺(現在、京都府相楽郡加茂町に旧跡あり)に客死するの惨事あり。







其宝物典沽の件より妙本寺は西山本門寺と事端を構え万年救護本尊
の名目にまで争論を起こすに至れり。





石山(大石寺)にても日精(現大石寺創立者で十七世とも十八世と
もいう)と日舜(大石寺十九世)との間に一時相承の縺れあり奉行所
を煩わして解決せるなり  」


と述べられています。


===============================================



これで大石寺の日精師が「富士門家中見聞・上」(富士宗学要集・
第五巻、154ページ)に

「万年救護本尊西山に在り」


と示された理由も理解することが出来たのであります。



それと同時に西山本門寺の貫主、由比日光師が



『日蓮大聖人の真実の本尊を、それではあなたがお持ちでしたか』



と言われた理由も理解することができた訳であります。



即ち、由比日光師は西山本門寺の尊霊殿に現在奉安されている
「大本尊」は先に記した事情によって模刻されたものであるという
ことを正しく知っていたのであり、それ故にその「大本尊」を日蓮
大聖人の出世の本懐の大本尊とは認めていなかったのであります。



当然それ故に日蓮正宗大石寺に存在する「大本尊」も富士門家では
問題視しなかった訳であります。




このようにして一つ一つ調べて参りますと『日興跡条々事』には

一、本門寺建立之時、新田卿阿闍梨日目を座主となし日本国乃至
  一閻浮提之内 山寺等の半分は日目嫡子分となし管領せしむ
  べし


一、日興が身に宛る弘安二年給わるところの大本尊 文永十一年
  太才甲戌十二月御筆 日目にこれを授与す。


一、大石寺は御堂と云、墓所と云、日目これを管領し修理を加へ
  勤行致し広宣流布を待つべきなり



と明らかにあるではありませんか。



この「日興跡条々事」のご遺言に依れば「控え字大本尊」も日興上
人を通して、日目上人が相承を受けられたのであり、もしも、日目
上人の流れを汲む者以外の所に


    「本因妙大本尊」

が伝来しているとなれば「日興跡条々事」で云う「本門寺」は絶対
に成立しえないし、ひいては御本佛の予言も嘘妄となってしまう訳
であります。


===============================================


これらの諸条件を総合的に整理し検討した結果、私の発見した


    「本因妙大本尊」



が御本佛日蓮大聖人の出世の本懐である真実の大本尊と確信を持つ
ことができたのであります。



本門正宗、富士山本門寺本堂奉安の本門戒壇の大本尊である



    「本因妙大本尊」を



故意に疑わせようとして種々の罵詈雑言を言い触らしている者達が
居るようでありますが、



    「本門戒壇の大御本尊」とは



御本佛日蓮大聖人が定められた唯一無二のもので日蓮大聖人併日興
上人等の証判を以って明らかな如く、日目上人に相承されたもので
あり、他に存在する訳がないのであります。



日蓮大聖人の正統な佛法の血脈 『本因妙大本尊』 が隠された事
を現大石寺の真の創立者である日精師は著書 「富士門家中見聞」
の中で種々述べられております。



そこで始めて西山本門寺貫主由比日光師の



『本当の本尊は貴方がお持ちか』といわれたことや、湊邦三氏が
大石寺の 

「堀上人がかねがね言われていた」


という意味が漸く理解できたのであります。






御出世あそばされた時の 『本因妙大本尊』 は大変いたんでいた
ので化粧直しをして写真を撮ることにし、一時私の事務所に動座
いたしました。



おりしも来ていた知人の土屋氏が



「仏具の修理ならこの辺では布施仏具店が最も良い」



というので電話で連絡を取り 『本因妙大本尊』 を自動車にのせ
て布施仏具店まで運び化粧直しを依頼したところ、これは一千万や
二千万のお金ではとても化粧直しはできないと断られてしまいまし
た。



そこで自分で化粧直しをしようと考え、私の事務所の近くにある
「山崎漆店」に漆を求めにいったところ、漆屋の店主が何にこんな
に漆を使うのかと聞くので、簡単に事情を説明したところ、



それならば良い職人がいるから紹介しますと言われ、中村良哉氏紹
介して下さったのであります。



早速、中村氏の工房に 『本因妙大本尊』を運びました。
中村氏は丁寧に見て、


「漆の塗り直しの方は何とかやってみましょう。
箔押しの直しの方は専門の蒔絵の職人を連れて行くから貴方が監督
して行って下さい、  それで良ければ引受けましょう」


と言われ、化粧直しをしていただくことになりました。



この化粧直しの作業の途中、光明寺という寺の住職が中村氏の工房
を訪れ


    『本因妙大本尊』 様を拝して



「これは富士大石寺の本当の本尊ではないか、、、大変なものだ、
どの様な経路で修理の依頼を受けたのか、、」



と尋ねられ修理が終わったら是非、写真を撮らせて欲しいと頼み込
まれたそうである。


===============================================


そして中村氏は私に

「そのような御本尊であれば前に教えてほしかった」
といわれた。


ともあれこのような経過のもとに 『本因妙大本尊』 の化粧直し
は昭和五十六年に無事終わり、御本佛の

『我滅度後 後 五百歳中 広宣流布』


の正しい予言の時に当たり再出世あそばされた訳であります。
まさに御本佛の予言とは凡夫の思議の及ぶところにあらずとはこの
ことを指しているのではないでしょうか。



日蓮大聖人は 『撰時抄』に


『日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ 彼の大集経の
白法穏没の時は第五の五百歳当世なる事は疑いなし


但し彼の白法穏没の次には法華経の肝心たる


     『南無妙法蓮華経』の

大白法の一閻浮提の内 八万の国あり、其の国国に八万の王あり、
王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を口々に唱う
るごとく広宣流布させ給うべきなり


問うて云く 其の証文如何


答えて云く


法華経の第七に云く 我が滅度の後 後の五百歳の中に広宣流布し
て閻浮提に於て断絶せしむること無けん等云々



経文は大集経の白法穏没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云々
同第六の巻に云く 悪世末法の時 能く是の経を持つ者等云々



又第五の巻に云く 後の末世の法滅せんと欲する時に於て等と 
又第四の巻に云く 而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し 況や
滅度の後おやと



又第五の巻に云く 一切世間の怨多くして信じ難しと
又第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く 悪魔・魔民
諸天・竜・夜叉・鳩般茶等其の便を得んと』



と示されております。



私の 『日目上人御正伝』執筆に対する某宗教団体の種々の妨害行
為は、この為かといま思い新たにするところであり、私には唯だ編
に  『本因妙大本尊』の御出世は御本佛日蓮大聖人の思し召しと
思われてならないのであります。



日興上人の日目上人に対する譲状 『日興跡條々事』に



一、本門寺建立之時、新田卿阿闍梨日目を座主となし日本国乃至
  一閻浮提の内、山寺等の半分者、日目嫡子分となし管領せしむ
  べし  残る所の半分、自餘の大衆らこれを領掌すべし


一、日興が、身に宛る弘安二年給わる所の大御本尊、文永十一年
  (太才甲戌)十二月御筆日目にこれを授与す


一、大石寺は、御堂と云ひ墓所と云ひ日目これを管領し修理を加え
  勤行致し広宣流布を待つべきなり


とあります。



時は移り変われども  「本門寺建立の時」  は日目嫡子分が
一閻浮提の山寺の半分を管領すべし、、、との日興上人の御遺命で
あり、まして 『本因妙大本尊』おわしました大石寺に於いては御
堂と云ひ御墓所と云い全てが日目上人の管理下に置かれて広宣流布
を待つべきものと日興上人は云い残されているのであります。



当然、日目上人の代に広宣流布をみない時は、日目嫡子分を以って
であるということは、

「本門寺建立之時」


につずく文に 「 日目嫡子分となし管領せしむべし」

とあって確かであります。


===============================================


この「日目嫡子分」と云う事に関して大石寺日因師は

『有師物語聴聞抄佳跡上』に


一、第丗段本書云、又云く当門流に於いて番匠鍛冶座頭等、万つ
  職人の子など出家になす事有るべからず、第一の化儀なり已上

  日因私に云く、若し爾らば四姓出家皆名為釈の文如何、

  仏在世には四姓皆出家して仏弟子となす 何ぞ之を簡ばんや、
  然るに今の意は当山貫主上人の弟子にすべからず、


  その故は一閻浮提の座主日目上人の跡を継承するが故に筋(血
  筋)なき子を弟子となし而して大石寺を相続し難たき故なり
  これ当山第一の化儀なり



と仰せられているのであります。



本門寺とは本門戒壇の大本尊を根本として成立する処の寺であり、
  

    『本門戒壇の大本尊』とは


『本因妙大本尊様』が日目上人の天奏勅許により



    『本門戒壇の大本尊』と


称される事に成った、唯一無二のもので日蓮大聖人より蓮蔵坊日目
上人に託されたのであり他に存在する訳がないのであります。



日蓮大聖人の正統な佛法の血脈『本因妙大本尊様』が隠された事を


        現大石寺の真の創設者である日精師は






著書「富士門家中見聞」の中で種々述べております。



特に「日主伝」の中には



「富士に帰りて院師の付属を受け往時十五年、其ノ頃身延の僧



 (富士門では地頭、波木井実長の謗法を以って興師身延
  離山の時、山号をも富士に移し重須方を身延と称した)



円来坊 板本尊を盗み取らんと欲して主師を傾く」 と記し
また日精師の法孫の日因師は『有師物語聴聞抄佳跡』に



「予ハ去る延亨三年丙寅三月御朱印御改メの時、秋元但馬守別席に
於いて甲州(駿州の誤りか)の禅家曹洞宗の僧録に対面す

大泉寺と号す

彼ノ(大泉寺)宗義 此の宗旨(日蓮法華)を談ス (中略)
又吾祖(日蓮大聖人)ノ聖教多くこれを有す


謂ク金泥の法華経一部延山(富士・久遠寺)より信玄(武田)之を
取り(永禄十三年 興国寺城攻めの時か、、、)納メ置クなり


御書多ク之有る皆是 信玄 之を聚め納むるなり 


寺内ニ池有り 富士の池と称す  常に富士山の影を浮かべる故
なり」とあり


また五十六世日応師は『辨惑観心抄』(大日蓮編集室発行)で、
現大石寺の伝説として、、、、


===============================================


「其当時乱離ノ世ニ乗シ身延ノ郡徒来テ戒壇ノ本尊及ビ其他ノ緒霊
宝ヲ鹵掠セントスルノ説アルニ仍テ日有計テ真ノ本尊及ビ緒霊宝ヲ
バ駿東郡東井出村村井某氏ノ穴ニ蔵シ日有彫刻ノ本尊ヲ仮立シテ且
ツ戒壇ノ本尊ニ擬セシナリ」




と述べておられます。





以上の様に日精師以来、日応師までの現大石寺の歴代法主が伝えて
来た




「本門戒壇の大本尊」




に関わる重大な言い伝えを日応師の法弟で五十九世を継いだ



         堀日亨師は



いかなる心算を以ってか、その著「富士日興上人詳伝」の「身延離
山の道程」の項で、これ等の伝説の全てを



        「馬鹿気た伝説」



として否定してしまわれたのであります。
ではなぜ堀日亨師以前の歴代の大石寺の法主は堀日亨師が




        「馬鹿気た伝説」



と一笑に伏す様な言い伝えを代々伝えて来たのでしょうか。





井出の穴に大本尊やその他の重宝が隠し込められているという伝説
は現大石寺のみに伝えられる伝説ではなく当時富士門を二分にした
保田、妙本寺蔵の

        「本尊問答抄」


の奥書にも



         「大石寺三箇の大事とは

         一、御影像
         一、園城寺申状
         一、御下文也、今は東台がいとに之有り」


と記録されているのであります。




また、日興上人の御入滅の砌り言い残された事を記録した

         「日興上人御遺跡事」には


_______________________________


日蓮聖人御御影竝御下文 園城寺申状 上野六人老僧之方巡可奉守
護但本門寺建立之時者可奉納本堂此背此旨成異義失輩者永可為大謗
法仍誡之状如件


                正慶二年二月十三日



________________________________



とあり、
これには日善師・日仙師・日目上人が連署しているのであります。
そして此の


          「大石寺三箇の重宝」を



        現大石寺はなに一つ伝えていない事を
        堀日亨師は明言して居られます。




これに対して「大石寺三箇の重宝」を秘蔵している「東台がいと」
の主が日目上人の生家の正統、小野寺左京であったことは大泉寺
に残されている資料に明らかな所であります。



現在、小野寺左京が東井出の地に士詠山大泉寺を再興した年を正確
に知る事は困難になってしまいましたが、左京は寛政元年(1789)
一月三十日入寂し、その法名を


         『一花無残居士』

と伝えております。





此の法名は左京自らが称え自らの位牌を刻んだと伝えられておりま
す。




その意味なす所は


「一花」とは『本因妙大本尊』の事であり、また自分の血統をであ
ります。



「無残」とは「完全に隠し込める」の意味であります。





即ち日蓮大聖人より日目(俗称 小野寺) 日道(俗称 小野寺)
と代々伝えた  


        『本因妙大本尊』


をであり、後醍醐天皇直系の南主と云う立場をであります。


では何故この時に左京はその様な事をしたのでしょうか。
其の原因は江戸幕府の宗教政策にあったのであります。


===============================================


左京の先祖に  

「三超院日秀上人」 

と呼ばれた人が居りました。


此の上人の行跡は本因妙を唱え日蓮大聖人の三大秘法は三種の神器
と論じた為に幕府より異流義として大弾圧を被り、その宗旨の根本
資料が散逸してしまった為に、今日大変誤って伝えられております。



そして誤った後世の一部の記録では日秀上人は現大石寺の創立者
日精師の弟子であったなどと云う本末転倒の論まで生じております。



この日秀上人に関して辻善之助博士は「日本仏教史第九巻」の中で



「宝永・享保の頃、日蓮宗に三鳥派と号する一類あり、異議を唱う
るに由り罰せられた。



三鳥派というは、其の開祖三鳥院日秀の院号からでたものである。
日秀は駿河吉原の人(以下略)」



と在り、当山本門寺の根本となった日目上人の開基の正統な大石寺
は吉原村大字依田原字大石寺に正しくは存在していたのであります。



此の日秀上人こそ日目上人が建立した正統な大石寺の継承者であり
本門寺の貫主なのであります。



この正統大石寺が幕府の大弾圧に依って寛永八年(1631)破壊され
消滅した翌年に徳川幕府の権力で同じ寺号を以って建立されたのが
現在の日蓮正宗大石寺なのであります。



日秀上人は正しくは  「三超院」  と称しました。



その原因は『如来寿量品」の「遣使還告」の時、衆生は「毒病皆癒」
との教示に随って日蓮大聖人より第三番目の上人は衆生救済の働き
に於いて祖師を超える、、、即ち一閻浮提座主日目上人の正裔と唱




『法華経』の生命の絶対平等、「本因妙」 を唱えた事が上人滅後
直ちに身延や富士門流から異流儀と訴えられ幕府より大弾圧を被っ
たのであります。



上人滅時の宝永三年(1706)の弾圧では門下の内七人が遠島、富士
妙蓮寺以下十六人が追放、信徒、宗仙以下八人が脱衣追払いに合い
享保三年(1718)には池上の訴えに依り信徒浅草寺地主、三郎兵衛
が流罪、



火消し役戸田靭負同心、渡辺弥一兵衛、同今村六右衛門母、旗本
大番組頭、長田治左衛門芳忠、同十郎左衛門吉之、同藤十郎芳充
御持筒、岡田将監同心、栗原四郎兵衛、松平石見守家臣、石束惣
兵衛



同万右衛門、他に細川越中守、松平肥後守、同下総守、細川長門守
小出弥兵衛家中の信徒が閉門押込めとなり、他に町人百五十人余の
信徒に難が及んだのであります。



なお旗本大番組頭、長田氏は後醍醐天皇の皇子宗良親王の裔孫であ
ります。



江戸幕府はこうした三超門流の大弾圧に次いで延享元年(1744)に
法令を次の如く定めています。



三鳥派不受不施派御仕置之事 

前々之例従延享元年極


===============================================



一、 三鳥派、不受不施の類之法を勧め候もの改宗致す可由申候共
   遠島
   但し 勧め候もの俗人に候はば 其子共改宗致す可旨申にお
   ゐてハ所払 妻ハ構い無し


一、 同、法を伝うを請ひ其上勧め候ものの宿をいたし候もの遠島
   但し 改宗致す可旨申におゐてハ重追放


一、 同、法を伝うを請ひ候内 勧め候もの 住所等世話いたし候
   ものハ 重追放
   但し 改宗致す可旨申におゐてハ田畑取上げ所払


一、 同、法を伝うを請ひ候もの改宗致し今より右の宗旨を持間敷
   旨証文致すにおゐてハ構い無し
   但し 改宗致す間敷旨申におゐてハ遠島


一、 同、勧め候ものを村方に差置候名主 組頭 法を伝うを請わ
   ず帰依致さず候共役儀取上
   但し 法を伝うを請ひ改宗致す可き旨申候共 名主ハ軽追放
   組頭ハ田畑取上所払


一、 同、勧め候ものハ居住致さず候共 大勢村方之もの帰依致し
   候を存ぜずにおゐてハ法を伝うを請ず帰依致さず候共 名主
   重き過料 組頭軽き過料
   但し 法を伝うを請ひ改宗致す可き旨申候共 右同じ


       (以上、『科條類典』より延書にした)





幕府の正法に対する処置が以上の如くで在ったので小野寺左京は
本門戒壇の大御本尊である

        『本因妙大本尊』を


駿東郡東井出の東台垣内に再び隠し込めました。
そうしてその寺を後醍醐天皇の綸旨を踏えて妙襌の寺

         「大泉寺」


と称したのであります。



大泉寺の大泉は泉の文字にかけて「地涌」を表わし、また、広宣の
義を込めたのであります。



尚、大泉寺は初め日蓮大聖人の教えを興す道場として蓮興寺法華道
場と称されていました。



また、なぜ、この東井出の地に隠し込めたかと云いますと、この地
は中世、阿野庄と称し特に東井出は阿野氏の館跡で、後醍醐天皇の
后、新待賢門院廉子の実家、阿野氏の名字の地であり南朝政権とは
最も深縁のある土地でありました。



即ち、左京と法名


          「一花無残居士」



には



日蓮大聖人の佛法を正しく伝えているとの義と本門正宗の全てを隠
し込めたとの義と自らの血統を隠し込めたと云っているのでありま
す。



この弾圧の原因となった根本は 「法華経」 に示された妙法蓮華
の一身即三身の捉え方と日蓮大聖人の王佛冥合思想の捉え方の相違
にありました。



「本因妙」の教えを守った小野寺左京の息である富柳は広宣の時を
期して文政八年(1825)正月、谷中の領玄寺山内に門弟の顕善院日
貞師の願いを入れて



          「本因妙大本尊」



を石に刻み、その御魂を分祀されました。



故にその大宝塔の台座に刻まれている紋章は身延の「井桁ニ橘」で
も、現大石寺の「鶴丸」でも無く、正しく当本門寺の灌頂幡が納め
られている金唐革の和櫃に在る



           「鎧蝶」紋



が刻まれているのであります。



此の一事を以ってしても一部の悪人達が云う「本因妙大本尊」を私
が偽造したなどと云う論が誤りである事が理解できると思うのであ
ります。



10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29
30 31 32 33 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58





トップページ

胡錦濤中国国家主席
より日了法皇に贈られし書



四川大学客体教授招聘証書


記念メダル



壁画鑑定結果



本門正宗要義之管見
前、精華大學・北京大學 楊教授




小野寺教授写真集






   
中国より日了法皇に贈られし
【南朝天皇御璽】




収蔵證書


小野寺教授寄贈敦煌壁画


四川大學学長補佐
李 小北氏書翰文



四川大學小野寺教授著書





小野寺教授略歴


歴史が証明する事実