日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見



私(小野寺氏)は杜の都といわれた東北の都市、仙台で生まれました。

幼い頃の思い出として、我が家には我が家には先祖が使用したとい
う「紺糸威の大鎧」や「卯之花威の胴丸」「五色威の具足」等を始
め太刀や槍、薙刀、金蒔絵のいろいろな道具類、


それに大きな厨子に納まって微笑んでいる日蓮大聖人の御影、また
日目上人が携えてきたという大曼荼羅や本門寺灌頂幡、日蓮大聖人
筆の『立正安国論』等々、

ヤマ済み
そうしてその「灌頂幡」を拡げて来客を相手に話しをしていた父の
姿を懐かしく思い出します。


幼い頃、こうした環境の中で成長し十一歳の時、父に連れられて勉
学の為、上京し叔父の許に一時預けられ足掛け二年程叔父のもとか
ら通学しましたが、その間に父と叔父との間で財産問題から確執が
生じ、十三歳の時、豊田という人の処へ嫁いだ父の妹の所へ預けら
れ暫くその叔母のもとで生活することになりました。


東京の日本橋に在った叔母の家に移った私の所へ仙台のの父からト
ラック二台に山積みした荷物が送られて来たのはそれから間もなく
でした。


荷物をほどいてみるとその中の一つの荷に「日蓮大聖人」の御影が
納められていました。


その時、偶然に叔父(豊田)の身内で鮭問屋を営んでいる馬場さん
が訪ねてきました。
そして馬場さんは、その僧形の等身大の御影像を見て驚き、叔父に
大謗法とまくしたてたのであります。


私は馬場さんに此の御影は日蓮大聖人の「正身の御影」と云われる
お像で、何故、我が家に伝わっているのかを説明しました。


日蓮正宗大石寺で第三祖と仰ぐ蓮蔵坊日目上人が我が家から輩出し
たのを始めとして、その後嗣の日道上人・日行上人・日時上人等の
歴代大石寺上人は皆、我が家の一族であった旨を話し、そのような
事情で御影像や代曼荼羅が伝えられていることを説明しましたが、
馬場さんにはそのことを理解することが出来なかったようでした。


後で、叔父の豊田から聞いてわかった事ですがこの馬場さんという
人は熱心な日蓮正宗創価学会の会員で当時、築地支部長を兼ね創価
学会会員のなかでは大変有名な人だったのであります。


馬場さんは私の話を創価学会本部にもっていき戸田氏に話したよう
で、私の父と当時創価学会会長の戸田城聖氏が東京信濃町の創価学
会本部で対論することになりました。


戸田氏は我が家に伝えた大聖人の遺品を眞正なものとして認めた上
で「猶、血脈相承の富士大石寺に存在していなければだめだ、大石
寺に返還してくれ」との一点張りで、その結果お互いに痼を残して
終わりました。


それとうのは、私の父の主張は富士門の正嫡、 日目上人正統血脈
の遠裔という歴史的立場にたっての主張であり戸田氏の方は日蓮正
宗大石寺の歴史の思い込みを基本としての主張だったからであります。


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この対論から暫く経って創価学会の機関紙 「大白蓮華」 に日目
上人の出自に関した記事が相次いで発表されるようになったのであ
ります。


当たり前と云えばそれまででありますが、そこに発表された日目上人
を中心とした小野寺家の歴史は創価学会に都合よく歪曲され、私が幼
い頃、父から聞かされていたそれとは大変相違していました。


そしてその事が私をして我が家の歴史と日目上人及び大石寺について
研究するきっかけと成ったのであります。


十六歳の時、叔母のもとより父のもとに帰り、それまでの文献による
研究成果を    
          
        『日目上人と耳引きの法門』

の表題のもとに纏めました。


その原稿は創価学会某幹部が出版を検討するからと持ち帰り、その後、
再三の請求にもかかわらず返還されないまま、いつしか行方不明にな
ってしまいました。

そこで、私は再度より確かな正伝をを執筆することを決意し、史跡検
証のため日目上人の誕生の地といわれる伊豆の畑毛の地を訪問し、土
地の人々が『館跡』と呼んでいる小高い丘を訪ねました。


丘の上には中央に古いお墓が建ち、その裏の方に一軒の隠居家と思わ
れる家があり、その前庭に

       『日目上人 日道上人誕生之地』


という小さな石碑が建っていました。


その家の長押には「雪山荘」という額がかけられており、玄関で案内
を乞うと中年の女性が出て来ました。


私は名を名乗り用件を伝えると奥から一人の老人が出て来て「さあ
どうぞ、遠慮なくお上がり下さい。」 としきりに進めて下さるの
で上がらせていただき、堀上人の仏間という所へ通され、そこで話
をしているうちに、その人が小説『日蓮大聖人』の著者の湊邦三氏
とわかりました。


湊氏の話しでは信仰上の理由から文壇と一切の交渉を断ち、この堀
日享師遺跡「雪山荘」の管理を引き受け、ここに引籠もって富士門
興隆のためにペンを取っているとの事で富士門の歴史について種々
話しがはずみました。


その話しの中で「もう、三、四年早く貴方がお訪ね下されば堀上人
もさぞかし喜ばれたのに、永くお待ちしていたのですよ」と云われ
たことが私には強く印象に残ったのであります。


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湊氏が帰り際に話された

「お山の方にお話し致しておきますから是非一度、日達上人にお会
いして見て下さい。」  という言葉を最後に私は雪山荘を辞去し
ました。

それから暫くして、以前に

    『日目上人と耳引きの法門』


の出版を相談したことのあった東京港区芝の「実業の世界社」から
電話があり

    『創価学会を折伏する』


という本を発行するから編集に参加しないかという話しがあったの
で「実業の世界社」を訪ね原稿の内容を拝見したところ、その内容
は創価学会に対する剥き出しの感情論で埋まっていたので私の見解
を述べ、内容のレベルを高めるように要求しましたが無理という事
なので、私が参加すべきすべきものではないと判断して辞退し日目
上人の御伝をより正確にするため我が家に伝えられている品の内、


「本門灌頂幡」と二、三の資料を携えて、本門寺の名に引かれ、始
めに静岡県富士郡芝川町所在の西山本門寺を訪ねました。


当時の西山本門寺の住職は白蓮阿闍梨日興上人の産館の末裔といわ
れる由比日光師であり由比師はお体をこわされていた様子でありま
したが突然の訪問のもかかわらず快くお会いしてくれました。


そこで訪問の目的を告げると、わざわざ近隣の檀家に連絡を取り三
名程の人を呼び集められました。
そしてそれから私の質問に対して、西山に保存されている資料を取
り出し、また、西山に残された伝説等を話して下さいました。


私は我が家に伝わる「灌頂幡」にまつわる話しを始めたところ、
日光師は急に真剣な顔になり

  「それでは日蓮大聖人の本当の大本尊は貴方がお持ちなのですか」


と質されしばし黙考されました。


その時、私には由比師のその言葉の持つ意味を理解することはでき
ずなんのことやらわからないまま、夜も更けたので謝辞を述べ西山
を辞去しました。


次に日を改め北山本門寺を訪問しましたが

  「歴史的なことは塔中の早川師を訪ねて聞いて下さい」


とのことで教学部長という早川達道師を紹介され早川師の坊で対談
しましたが得るべきものは何もありませんでした。


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それから富士下条の妙蓮寺や下之坊、小泉の久遠寺、京都の要法寺
日目上人の御正墓の所在地である京都烏辺野の実報寺、日目上人御
入滅の処と伝える岐阜垂井の日目庵、

日蓮大聖人御真蹟で日目上人授与の大曼荼羅を伝えている三重県桑
名の寿量寺、小野寺虎王麿授与の大曼荼羅を伝える栃木の信行寺、
仙台の仏眼寺、登米の本源寺、保田の妙本寺など、日目上人に関係
があると思われる寺院、史跡に足を運び調査を進めて行くうちに


『日目上人正伝』はいつしか『富士門史』となりつつありました。


日蓮宗富士門流の概要を知り得、ようやく日目上人の事跡の全貌に
光が見え始めて来た頃、湊氏から電話連絡があったという事なので
連絡して見ると


「日達上人にお話したところ、大変喜ばれて是非御来山下さい」


という伝言があったという連絡でした。
その伝言があって暫くして埼玉県大宮の日蓮正宗正因寺の矢島覚道
師が私の留守中に目黒の私宅に訪ねてこられました。


矢島師は我が家の家系を当時病床に伏していた父から概略を聞き、
我が家に残された歴史資料の一部を見て帰ったそうです。
その後、数日を経て大石寺より


「是非一度お山にお越し下さい、ご案内いたします」


という連絡があり迎えの人々と共に大石寺に登山しました。
大石寺では大勢が山門に並んで出迎えて下さり、日達師先導で大石
寺「六壷」以下の諸堂の内部を案内していただきました。


その後、私は『日目上人正伝』に使用するため最も相応しい資料の
写真版を拝借すべく大石寺・内事部を訪ねたところ各種の写真版は
創価学会の方に保管されていて内事部には無いという返答でした。


そこで創価学会より写真版を借用すべく、故戸田城聖創価学会会長
の甥に当たり知人でもある村上修氏にその旨を話したところ、村上
氏は


「それでは和泉副会長を紹介しましょう」


といわれ、その場から電話で連絡をとり、翌々日、東京信濃町の創
価学会本部に村上氏とともに和泉氏を訪ね用件を話し協力方を依頼
しました。


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その時、和泉氏の返事は

「本の内容が総本山に直接関係することだから大石寺の教学部長で
ある京都・平安寺の住職安部信雄師を紹介致しますから、阿部師と
話し合ってみて下さい」


と言われ安部住職の都合を聞いて連絡するという事になりました。
暫く連絡を待ちましたが、いつまでも連絡がないので二、三度、私
は創価学会本部へ電話連絡をし和泉氏を呼んでもらいました。


ところが電話口で確かにいたはずの和泉氏が私からの電話と知ると
突然に出掛けた事になってしまったり、急用で突然行方不明になっ
てしまったり、折り返し電話連絡下さるという返事に一日中まって
も連絡がながったりという状態に私も呆れ果ててしまい紹介者の村
上氏に状況を話し釈明を求めた処、すぐ調べて連絡するということ
になりました。


村上氏の報告では

「貴方の親戚の伊達貞宗(仙台伊達家第十七代当主)さんが貴方の
事を盛んに和泉氏に中傷しているので和泉氏は貴方を警戒しています。
私から貴方と伊達の関係を誤解のないように良く説明しておいたから
連絡を取ってみて下さい。」


という話であったがそうこうしている中に創価学会会長池田大作氏
の「板曼荼羅模刻事件」と呼ばれる事件が発覚して大石寺側対創価
学会の関係も騒然となり、その機会を見失ってしまいその後、日達
師も遷化してしまわれたのであります。


このような経緯の中で

「それならば是非、日顕上人に直接お会いしてお話してみては」


と知人の山根氏からの話があり、その兄に当たる方の紹介で大石寺
に日蓮正宗の管長に就任されてまだ日の浅い日顕師を訪ねました。


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その日は日顕師が日蓮正宗の管長に就任されて始めての日蓮正宗
大石寺の「本門戒壇之願主弥四郎国重」板曼荼羅本尊御開扉の当日
であったと記憶しています。


私が日顕師に

「日目上人の天奏と富士山本門寺の勅許の問題」 

「我が家と日目上人」の関係、また現在に至る経緯等を話し日顕師
の意見を伺いました。


それに対して日顕師から種々の質問があり、その後に私の主張である

「過去に富士に勅許を以って建立された富士山本門寺が存在していた
事実がある」

ということに、日顕師も


「現在、大石寺にはその問題に対して確固とした証拠となるべき文
献並びに資料は残されていないが個人的には私もそう思う」 と
述べられたのであります。


本堂の御開扉の予定時間が既に経過して役僧が度々日顕師を迎えに
こられるので、私も本日の対談はこれまでということにして大石寺
を辞去しました。


辞去の間際、日顕師の管長就任のお祝いに私が福島県伊達郡に所有
する富士門有縁の寺跡を寄進する旨を伝え寄進の実務を私の秘書的
役割を担っていた者に一任しました。


ところが、周知の如く当時、日蓮正宗総本山大石寺を取り巻く状況
は混乱を極めており、後で聞き知ったことでありますが、その土地
の件で私の秘書と大石寺側に話しの行き違いが生じ、私の真意が日
顕師に正しく伝わらず日顕師は一方的に誤解されたようであります。


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その頃、また別の人物から偶然

「前総監の早瀬日慈師にお会いしてみませんか」
という話があり池袋の法道院に早瀬師を訪ねてお会いしました。


最初に訪問した時は早瀬師は何事かと警戒ぎみでしたが、私と故日達師
との関係や日顕師との関わりを有りのままに話して行く内に胸襟を開かれ、


「お祖父さん(堀日亨師)が生きていたら、さぞかし喜ばれたのに残念な
事だ。
自由に是非いつでもお越し下さい。」


といわれ、私はその言葉にあまえて度々法道院を訪ね、早瀬師に忌憚の
ない意見を申し述べさせていただきました。


当然、私の意見の中には日蓮正宗総本山大石寺で本門戒壇の大御本尊
と称している願主弥四郎国重の「楠板彫刻大曼荼羅」についてでもあり、
このような経緯を経て昭和五十六年に


      『日目上人御正伝』

の草稿は出来上がったのであります。



明ければ日目上人の六百五十年遠忌当る年となっていました。


『日目上人御正伝』の巻頭を飾るべき適当な資料を撮影すべく父から
譲り受けた品々の全部を開いて見る事にし、灌頂幡の蔵められている
金唐革で覆われた「和櫃」や諸々の道具が収められている黒漆の「長持」
「鋏箱」を開いて、中に収められている一つ一つを取り出し最後にいく
つかの嵩張る「屏風箱」の点検に入り、父から


「時が来るまで、絶対に開けてはならない、、、
もし、開けたら目が潰れる」


と、申し送りされた「屏風箱」を引き摺り出し、蓋を開けて見るとそ
こには背絹がボロボロになった六曲二双の金屏風が納まっていました。


その屏風を取り出そうとしたところ、大変に重く屏風箱を横倒しにして
屏風を取り出してみると、そこに金屏風の中を刳り貫いて

     「本因妙大本尊」

が隠し込められていたのであります。


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