富士山本門寺の成立


この紫子袖の受領について日道上人のお手紙に


「追伸候 紫子袖一送給候畢 尚目出度候
 新春之御慶賀 自他申籠候 尚以幸甚幸甚 仰日目上人御入滅之後
 無御音信候条無心元思候処 此使者悦無極候云々

 日興上人ノ御跡ノ人々 面々ニ法門を立違候
 或ハ同天目方便品不読誦

 或ハ同鎌倉方亦門得道之旨立申候 唯日道一人立正義間 
 強敵充満候

 明年秋御登山承候 世出世可申談条 毎時期後信候
 恐々謹言

 建武二年正月廿四日                 日道


  謹上    大夫阿闍梨御坊」



とあります。

「大夫阿闍梨」とは当時、都に在った日尊師のことであります。


次いで同年六月七日、念願の勅旨は『本門寺』勅許の官符を携えて
富士へ登ってきたのであります。
勅旨到来の様子は日道上人が大学民部阿闍梨日盛に宛てた御手紙に


「昨朝書図之思沢歴却不尽次第候歟 抑今日不庭客人来臨候
 はれかま敷候に此衣見苦候 渋谷三河衣袈裟 時程御借用恐悦候

相構相構不空候事候えよ 候えよ  (以下略)


  六月七日               日道(花押)

大学阿闍梨御坊


とあり「不庭」とは御所の別称「禁庭」という事であります。
当然、「不庭」が「禁庭」と同義語であればそこからの客人とは

         「勅旨」

という事になるのであります。


即ち現在、日蓮正宗総本山大石寺で「大御本尊」と称している
「弥次郎国重敬白」の板曼荼羅はその添書の「本門戒壇願主」から
判定すれば日蓮大聖人の御遷化時より、此の勅旨が富士に登って来
た建武二年(1335)までの間の富士門の主義主張の代弁者という事
になる訳であります。


本来であれば「本門戒壇」建立は日蓮大聖人の主張である訳ですか
らその願主は「日蓮」とあって然る可きであります。


ただ問題は日蓮大聖人が『三大秘法稟承事』に

『戒壇とは王法仏法に冥じ 仏法王法に合して 王・臣一同に本門
 の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の
 未来に移さん時 勅宣並に御教書を申し下して』


と申されております。
即ち、その「申し下して」の行為をする人も、その助力者も願主の
一人となり得る訳であります。


当然、歴史的には申し下す直接の行為をなした人物は日目上人
であります。
そうして上人に随って行動を共にした日尊・日郷の両師やその留守居
を務められた日道上人も願主の一人と申せましょう。


===============================================



それでは今大石寺本堂奉安の板曼荼羅にこれらの代表者として名を
留めている

        「弥四郎国重」

とは如何なる人物だったのでしょうか。


当然、日目上人の天奏、即ち「本門戒壇」の勅許運動に直接的な
係りが無ければ大曼荼羅に「本門戒壇の願主」としてその名を留め
られる訳がないはずであります。


富士門を代表して大曼荼羅に名を留めたという事は当時の富士門の
第一の大檀那という事であり強信者という事にもなる訳であります。


この人物に関して現在の大石寺の事実上の創設者である日静師は
弥四郎国重に対する伝説を


『家中見聞 中』(富士宗学要集大五巻、二十五ページ所集)に
「弥四郎国重事、日道を大石寺に移す 御本尊御骨竝に御筆御書等
を守護せしむ」 

と、記録しておられます。


即ち、大石寺の坊地の土地は日目上人の生母、蓮阿尼と南条時光が
徳治の頃、その支配権をめぐり係争し蓮阿尼の支配地であることが
幕府より確認されております。


『富士宗学要集』(第八巻、二十三頁)所集文書に、


富士の上方、上野の郷一分の給主、新田五郎後家尼蓮阿申す所
当米以下公事等の訴状 此の如き子細状に見ゆ、早く之を弁え申さ
るべきの由に候なり 仍て執達件の如し

徳治二年(1307)二月十七日   


               信 □  在り判
               左衛門尉 在り判


南条七朗次郎殿


とあり、この文書は幕府問注所の官券の写しであり


    「上野の郷一分の給主、新田五郎」


とは、日目上人の父、小野寺五郎重綱を指している事は明らかで
あります。

即ち、富士上野郷大石ヶ原「法華堂」はこの新田五郎重綱の領内に
建立されたのであり新田小野寺家の領地故に大石寺の代々の住持は
日目上人・日道上人・日行上人等々皆、日目上人の家系即ち、
小野寺家の血縁者でなければならなかったのであります。


この様な当時の土地支配権を通して「弥四郎国重」という人物を考察
して見ますと、日道上人を大石寺に移したと云う伝説から考えてみて
も、日目上人の父新田五郎重綱か日目上人の母、南条蓮阿尼に繋がる
直系者でなければならないと云う事になるのであります。


しかし、日目上人の母系である南条家の総領、七朗次郎時光と、
日目上人の母、蓮阿尼が本件土地の支配権をめぐり争い、蓮阿尼が
勝訴したのでありますから「弥四郎国重」は新田小野寺家の総領あ
るいはそれに准ずる立場の人でなければならなくなるのであります。


===============================================


こうした条件を踏まえて『小野寺家系図』を調査してみると、日目
上人の叔父の仁田四郎信綱の子息に「弥四郎国重」が存在し弥四郎
の弥とは古い訓で「カサナル」と読むのですからこの関係は当然と
もいえ時代条件も合致いたします。

また父信綱は日蓮大聖人の弟子として


  使ひ御志限り無き者か 経は法華経・顕密第一の大法なり
  仏は釈迦物・諸仏第一の上仏なり
  行者は法華経の行者に相似たり 三事既に相応せり 檀那の
  一願必ず成就せんか


                 恐恐謹言

  五月二十九日               日蓮 在判


  新田殿御返事
   
   並に女房の御方


とのお手紙を給わった人物であり、まさにこのお手紙の内容は
「三大秘法」成就の確信を日蓮大聖人が信綱に伝えているので
あります。


即ち「檀那の一願」とは日蓮大聖人の教に従って本門戒壇の勅許を
願う処の生命そのものであり、その子、弥四郎国重の念願は必ず成就
するであろうと云う事に成る訳であります。


ちなみに信綱が新田小野寺氏の駿河地方の所領を支配していた事は
既に静岡県文化財調査員の故山口稔氏の研究で明らかにされており
ます。


即ち、新田小野寺弥四郎国重は当時、富士門に於ける最大の支援者
だった訳であります。


現在の富士門流の誤りは此の実在の人物、弥四郎国重の実態を忘却
してしまい大石寺日量師は『富士大石寺明細誌』に

     「南部六郎実長の嫡男弥四郎国重」となし、


近代に至っては終にその信徒団体・創価学会会長 戸田城聖氏に依
って

 「日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのであって実在の人物ではない。」
    (戸田城聖質問会集 十六ページ)

と、抹殺され空絵事の人物にされてしまいました。


それに対して未だに日蓮正宗大石寺側では確固とした答えを出して
はいません。
否、答えの出しようが無いというのが現在の大石寺の実態なので
あります。


戸田氏が言うが如き自在しない「弥四郎国重」が本門戒壇の願主と
いうことであれば本門事戒壇は未来永劫に成立するわけがないので
あります。


なぜならば、実在しない願主という云う事が既に本門ではないから
なのであります。


この様に現在の大石寺を根本資料を通して見るとその歴史と教義に
矛盾が発生し支離滅裂となってしまうのであります。


これを今迄は信徒団体創価学会と大石寺とが互いに球の投げあいを
して曖昧模糊として来た訳であります。


===============================================
 

10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29
30 31 32 33 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58





トップページ

胡錦濤中国国家主席
より日了法皇に贈られし書



四川大学客体教授招聘証書


記念メダル



壁画鑑定結果



本門正宗要義之管見
前、精華大學・北京大學 楊教授




小野寺教授写真集






   
中国より日了法皇に贈られし
【南朝天皇御璽】




収蔵證書


小野寺教授寄贈敦煌壁画


四川大學学長補佐
李 小北氏書翰文



四川大學小野寺教授著書





小野寺教授略歴


歴史が証明する事実