第十一章

明治政体府の情報操作

 一八六八年のニューヨークタイムスの記事



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当時緒外国の関心事であった東武天皇事件を交戦団体(デ・フャク
ト政府)として諸外国に承認させない為に、明治政体府側で意図的
に作成された文書が「東武皇帝閣僚名簿」であり、諸外国に対して
の情報操作の為に政体府側が故意に作成、流布した偽造文書です。


この情報操作の結果が1868年(明治元年)十月十八日付「ニューヨ
ークタイムス」の次のような記事となりました。


「日本からの政治的ニュースのもっとも重要な事項は高僧の一人で
ある小野宮(上野宮)様である北部、又は大君(徳川慶喜)の徒党
による擁立、この動きにより現在、日本のは二人の天皇が居る。



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          「正統天皇と日蓮」P139を参照
          http://syohnan.jp/nitiren.shtml







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全てがその目的を達成した時、彼は再び単なる宮様になり、そうし
て真の帝の掌中に権力が入るであろう。」


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このニューヨークタイムスの記事は小野宮(南主知徳院)と上野宮
(輪王寺宮)を同一視して表現し、その為、記事の内容が大変混乱し
意味不明の文章となっています。


ましてアメリカでこでこの報道がされた1868年(明治元年)十月
十八日、既に東武天皇の率いる官軍は九月十一日の仙台藩の降伏を
以て瓦解し、東武天皇は民間に逃れ、東武天皇方の軍事総督の輪王
寺宮は明治政体府に謝罪して囚われの身となり、仙台より京都へ囚
人として護送の途上にありました。
故に明治政体府側では如何様にでも、政体府に都合良く発表出来た
のです。


我が国の帝はヨーロッパに諸国と異なり日蓮大聖人が『法華取要抄』






       『天に二日なく地に二王なし』






と仰る通りで三種の神器の正統な所持なくしてはその即位は認めら
れません。


明治政体天皇の叔父である輪王寺宮の即位は、この三種の神器の相
承という絶対条件よりして絶対に認められる所のものではありませ
ん。
三種の神器の正統な所持という事から言っても東武天皇は南主の即
位以外には絶対に成立しないところです。


戊辰の役の主体者、東武天皇が輪王寺宮公現法親王ではない証拠の
一つとして、この事件には能久親王の兄、彈正尹、朝彦親王(後の
久邇宮)の京都に在って加担したとされています。
そうして明治政体府は東武天皇として即位したという公現法親王よ
りも当時、都に在った朝彦親王を東武天皇即位事件の国事犯として
重く処罰しました。



即ち鎮将府判事江藤新平胤雄の戊辰七月の「東京行幸遅延を諫むる
の表」の冒頭に、






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            「正統天皇と日蓮」P142
          http://syohnan.jp/nitiren.shtml










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結論として陸奥国仙台に即位した天皇事件の首謀者は京都に居た
大塔宮護良親王(後醍醐天皇の息)贔屓の中川宮朝彦親王という
事で決着を見たのであります。
中川宮に対する政体府の処置は「織田宗之の記録」に次の様に記さ
れています。


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  「戊辰八月、刑法官知事大原重徳、判事中島錫胤、朝命を奉じ
   て加陽親王に謁し、殿下は慶喜に私通せられて非望を企劃せ
   れるといふ状件を詰問す。


   親王大いに驚き何の證拠があるとのたまふ。
   大原曰く、已に殿下の近臣浦野兵庫を捕え之を糺せり。
   と、誓盟の連判書の如き物を出し、其の終りに赤く手の跡の
   押されたるを指し是れ殿下の手跡にあらずやと問ふ。


   親王直に手を當て給うに大きさ一寸許も違う、大原恐懼。
   親王曰く、是れ全く奸人の偽物、吾の知らざる所を見るに
   足らん。


   蓋し浦野の糾問も無理に口述を造りしなれば、大原閉口。


   それは誠に済まぬ事で恐入次第であるが何分にも今、刑法官
   として殿下に謁見する上は朝議已にかく決定した事である故
   、必ず殿下の御謹慎を請はねばならぬ、といふ。


   而も親王は、かく大間違いの事おば恐れ入りと承伏しては却
   って朝廷に對して済まぬとて、謹慎の御受を為されず。
   大原益々閉口して、如何にも恐入次第であるが、宮の御恭順
   を願ひ度し、重徳、死を誓ひ、御尊体に禍の及ばぬ様に計ふ
   べし。


   と、ありければ、親王曰く、今や朝議已に決して奸人の讒に
   陥りしからには是全く奇禍なり、復途のあるなしと、遂に承
   伏して配流に就き給う。


   此事は親王の近臣たりし山田時章の記事に詳なり(史談会速
   記録)


   この時、親王は奥に入って今一度子供等に面会したい旨を仰
   せられたのであったが、大原は之を厳しく遮ってその場から
   直様芸州藩へ御配流申したのであった。



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即ち朝彦親王は一貫して、東武天皇即位事件に自分は一切関与して
いないと主張しています。



事実、東武天皇は仙台で即位したのであって京都で即位したのでは
ありません。
東武天皇として即位したと云われる輪王寺宮は京都の伏見宮邸で十
ヶ月の謹慎で済み、その事件に一切関与していないと主張する中川
宮朝彦親王は安芸国広島へ五年間幽閉され、この戊辰の東武天皇即
位事件は表向き終焉をみました。


不思議な事に、この事件に関与が取り沙汰された人々が明治政体府
の中で出世を遂げました。


即ち能久親王は戊辰の役の後、一時謹慎を命ぜられたが、翌年九月
特使を以て謹慎を解かれドイツに留学、留学中に北白川宮を相続し
陸軍少佐に任官し、のち近衛師団長として明治政体府の中で活躍し
陸軍中将として台湾征討軍を指揮し明治二十八年に台湾に逝去しま
した。


朝彦親王は反政府運動を計画したとの嫌疑で明治五年まで安芸の国
に流罪となりましたがその後、皇祖天照大神を祀る伊勢神宮の祭主
として明治政体府の精神的バックボーンの中心的指導者となり、そ
の子息達は賀陽・梨本・朝香・東久邇の各宮家を起こし、その孫の
良子女王は昭和政体天皇の皇后となりました。


これ等の処罰は、もし「一天万乗の君」としての正統な明治天皇に
謀反し軍事革命の行動を取った者達とすれば、余りにもその罪は軽
く輪王寺宮や中川宮が戊辰の役の実態の立役者でない事を如実に物
語っています。


明治四十四年南北朝正閏論争が起こった時、秋元興朝子爵は夫人が
戊辰に南主を奉戴した盛岡二十万石藩主南部利剛の娘であった関係
からか「維新の始めには随分此の南北朝問題では苦心もしたらしい。
之が結果元老院などで調べ上げた物にも南朝を正統と認めている。」
と談話されています。


当然、中川宮や輪王寺宮の起こした事件であれば、何れ方も北朝の
人々であることは明々白々であり



          「南北朝問題で苦心」



する必要は全くないはずです。




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