第十章

幕末の尊王気運

 南主(通称東武天皇)の即位


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三超門流への幕府の延亨の大弾圧によって正統皇長寿因様が「三種
の神器」を隠され、王佛冥合・本因妙の説法を表向き停止され、日
目聖人に後醍醐天皇が下し賜った綸旨に基づいて法華禅を唱え妙禅
の宗旨と号して蓮興寺法華道場を大泉禅寺と改めました。


上野の輪王寺門跡公澄入道親王(伏見宮兵部卿邦頼の子・後桃園帝
養子)が仲裁に宗門改めの結果、文政八年(1825)正月、冨柳公
(蝶眞法皇)によって江戸上野の谷中、領玄寺山内に「本因妙大本尊
」の大宝塔が建立されました。


長寿因法皇の孫、円蔵院様は尊王思想の盛り上がりの中で王佛冥合
の正統政府の再興を計られましたが志ならず駿河国富士郡天保ニ年
(1831)七月朔日、崩御されました。


辞世には、



          西し東し北なき浮世みかぎりて
          南へ起て元へかえさん



とあります。


そうして富士の山宮の地に現存する円蔵院様の墓碑には


         「再興南朝帝円蔵院」


と刻まれています。


円蔵院の「円」は後醍醐天皇が日蓮大聖人の法華の解釈「一乗円頓
の宗旨」と称した事から、法華経の本門を示す所です。
日蓮大聖人佛法の当体者、王佛冥合の聖王と云う意味がこの「円」
に込められているのです。


この南主円蔵院様の正統な遠裔が富士山久遠常在院本門寺座主であ
る上行院(著者)です。


上行院の玄祖父の知徳院様の代まで駿河国駿東郡東井出の地に御所
を営んでいた事は沼津市井出に所在する士詠山大泉寺に保存されてい
る小野寺左京寄進の什器や位牌、過去帳及びその境内に現存する小
野寺左京の墓石等によって確認する事ができます。


幕末の米国使節ペリー来訪による尊皇攘夷論争で国内が不安で騒然
とした中に、知徳院様は人心を静謐せしめんと日蓮大聖人の生身の
御影並びに



           『立正安国論』



を奉持してお供と共に入洛されました。


その入洛に知徳院様の遠縁に当たる平岡円四郎が同行案内を致しま
した。


平岡円四郎は藤田東湖の推薦で一橋慶喜の雇い小姓となり、慶喜が
将軍後見職に就いた時、その用心として当時天下を動かしているの
は一橋慶喜で、それを動かしているのは平岡円四郎だとさえ云われ
た傑物でしたが、そのために元冶元年(1864)二月十六日夜、平岡
円四郎は京都で暗殺されました。


平岡円四郎暗殺さる、、の訃報に接し、知徳院(後の寂光院)様は
急遽富士に立ち帰り令法を断やさないために相伝の重宝を纏め、大
倉屋稲木氏輩下の人足に伝来の重宝を担がせ(長持七棹と伝える)
衛士六十七名に衛られ駿東郡東井出の地より奥州仙台に吉野朝の廷臣
伊達・田村の両氏を頼みとして遷幸されました。


知徳院様は仙台侯伊達慶邦に奉じられ、孝明政体天皇の慶応四年、
戊辰六月十日を国体の南主、通称東武天皇として大政元年と改元し
持明院政体府と対峙されました。


宇和島藩伊達宗城の子で慶邦の養子となり奥州名取郡岩沼表に出陣
した伊達宗厚敦は養父慶邦の命に随わず賊兵と交戦する事なく政体
府側に降伏し、その結果知徳院様は新政体府より国事犯として追わ
れる身となり、出家して寂光院と号し民間に隠れました。


巷ではこの南主、東武天皇即位事件を会津候松平容保に同情した奥
・羽・越の三十一藩が仙台候伊達中将慶邦を中心として持妙院統の
輪王寺宮一品法親王(後の北白川宮能久親王)を軍事総督と担いで
起した事件として概略次のように伝えています。





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「東武皇帝、名は輪王寺宮公現法親王、後の北白川宮能久親王。
持妙院統の伏見宮邦家親王の第九子として弘化四年(1847)二月
十六日、京都に誕生、 


翌年、仁孝政体天皇の養子となり十一歳で親王宣下を受け能久の名
を賜わり得度して公現法親王と称し江戸、東叡山寛永寺に入り慶応
三年(1867)二十一歳で日光山輪王寺門跡・天台座主となった。


翌年、徳川慶喜から助命の嘆願を要請され京都へ向かう途中で政体
府より参内を拒絶され寛永寺に帰ったところ五月十五日未明、彰義
隊による上野戦争が起こり上野を脱出し、二十五日夜半、軍艦長鯨
丸に乗船して奥羽に向い二十八日、常陸の平潟に上陸された」


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 ※  これより以前については次のように伝えられています。



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「四月二十一日に奥・羽・越三十一藩の攻守同盟が仙台藩を盟主と
 してすでに成立し、公現法親王は六月六日に松平中将容保の会津
 城に入り、十四日上杉中将斎憲の米沢に到着、そして二十七日、
 米沢をを発ち七月二日仙台東照宮の別当寺天台宗眺海山仙岳院に
 到着、攻守同盟に令旨を発し、十二日奥羽越列藩同盟軍事総督と
 成り苅田郡白石に出陣された。


 この公現法親王を帝と仰いで東武天皇とし公現法親王は慶応四年
 六月十六日を大政元年と改めた。」


その一方、同年八月二十七日、持妙院統の政体天皇は即位し、九月
八日明治元年と改元、同月十一日仙台藩の降伏を受けて公現法親王
は同十五日明治政体府に謝罪し、仙台追討総督四条隆謌は十月六日
仙台城に入部し、輪王寺宮は同月十二日仙台を発して十一月、京都
の伏見宮邸に謹慎となり、翌年九月謹慎を解かれた。」


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この東武天皇即位事件について当時の記録としては旧仙台藩士所持
の『東武天皇御守衛』記録という文献の他に「蜂須賀家文書」(文
部省資料館蔵)と菊池容斉が戊辰八月十五日に書き写したと奥書の
ある文書が現在知られています。


「菊池文書」は、その内容から見て「蜂須賀家文書」を土台とした
写しと考えられます。


仙台藩士所持の文書『東武皇帝御守衛』では、「大政元年六月十五
日御即位東武帝、御諱陸運、女御、慶邦養女」とのみ記されてをり、
東武皇帝が具体的に何人か、その妃がどのような身分の人か一切示
されていません。



「蜂須賀家文書」では、


「奥州改元大政元年六月十五日即位、上野御宮事、東武皇帝、御諱
陸運、御后、一条関白ノ御女、仙台慶邦養女」と「上野宮」が即位
したと記録に変化が生じ、「菊池文書」では


「慶応四辰六月十六日於奥州改元大政元年卜上野宮様事、東武皇帝
御諱陸運、皇后、光、仙台慶邸公養女、実は一条関白の御女也」と、
より一層記録内容に変化が見られ次第に東武皇帝と輪王寺宮とが同
一人物であるかのような錯覚を起させる内容へと次第に変化してい
きました。


「菊池文書」に従うならば東武皇帝の妃は光であり、光は土佐山内
少将豊信の娘光子を連想させます。
何故ならば輪王寺宮であった北白川宮能久親王は明治十一年に山内
光子と結婚したからです。


しかしこれは戊辰の役の十年後の事です。
また山内光子が一条関白の養女或は伊達慶邦の養女になった事実は
全くありません。


明治十年十一月五日に北白川宮能久親王は光子と離婚し、後添えの
妃は宇和島の伊達宗徳の二女冨子で、冨子は島津久光の養女となり
能久親王に嫁したのです。


即ち『東武皇帝御守衛』名簿を根拠に、東武皇帝が輪王寺宮公現法
親王とする証拠はどこにも存在しないのです。


反対に『東武皇帝御守衛』名簿の真偽性を問題にすると、東武皇帝
側に付いた南部利剛や上杉斉彬、松平定敬等は元治元年、即ち戊辰
以前に既に政体府の近衛中将に任官していたのに『東武皇帝御守衛』
名簿では政体府の侍臣としての身分より官位が降格されているという
常識では理解の出来ない所があります。


国体の東武天皇とはいえ新政権の樹立に命を懸ける訳ですから、当
時の社会習慣では身分が降格され、それでも猶且新体制に参加する
という事は絶対に考えられません。


またこの文献は大政元年六月十五日以降の記録文書なのに政体の征
東総督府にて奥羽派遣の予定はされたが、実際には派遣されなかっ
た黒田・品川の両名が東武皇帝の国務方として記載されていて当時
の実態に即していないのです。


又、『東武皇帝御守衛』名簿の内容は事実に照合すると誤字・当て
字が余りにも酷く、真実の記録とは思われません。
しかし天皇が戊辰に仙台に即位したことは事実です。


上行院(筆者)の玄祖父知徳院様や富士山本門寺の中興となられた
月華門院の曽祖父は、この東武天皇即位事件の主体者と首謀者とし
て欽定憲法発布の大赦令、、即ち明治政体政府二十二年に憲法発布
という新たな天皇地位の法制化に依って赦されました。


月華門院の曽祖父は幕末京都にあって中川宮朝彦親王を養育した人
物です。
明治政体府三年の太政官布告により、十六弁菊家紋は天皇の他は使
用の絶対禁制とされた中で、月華門院の家は正統天皇家の印である
十六単弁菊花紋をやや菱形にした禁制の十六弁菊花紋を使用し、今
日に至っています。


知徳院様の幕末の入洛については諸説があり、それを思い合わせま
すと縁というものは大変不思議なものと考えさせられます。
戊辰の砌り、仙台に於いて輪王寺宮より知徳院様に徳川慶喜が江戸
城西の丸より持ち出した後醍醐天皇の御遺品の茶碗、銘「御器」が
献上されました。


この「御器」茶碗について「原色茶道大辞典」(淡交社発行)には


「紅葉御器・この手の本歌は元大徳寺に在ったが秀吉をへて柳営御
物となった。
戊辰の役の際、上野で消失したとつたえる。」


と誤って紹介されていますが、実物は南主小野寺家に現在も伝えら
れこの御器には慶喜公の娘糸子と夫人とした侯爵四条隆愛が読んだ
短冊が添えられています。


その詠には



     以久多比の 時局に染し 多つたやま

     三年の紅葉の 千入奈留良武


とあります。



この詠の意を考えますと、「いくたびの時局に染し」とは後醍醐天
皇の御世より戊辰に至る時代の変遷、権力の移り変わりを物語って
います。


「たつたやま、」とは大和国生駒郡斑鳩郡所在の紅葉の名所で「御
器」の景色に懸けた所であり、また、たつは「龍」で天皇を表し、
又「立つ」で正統天皇の即位を表現したものです。


「三年の紅葉の」とは龍田山の「峯」に懸け、幕末から戊辰にかけ
ての戦争を示し、「紅葉の」とは紅葉の赤を武士の赤血に喩え、
「千入奈留良武」の千は「地」で「御器」の地肌の模様に懸けまし
た。


その意は幾度の時局の変遷に流した多勢の武士の魂魄を留めた茶碗
という事です。


本来、この茶碗の「御器」の命名は、全体鈍色の地肌に朝焼けの様
な窯変が見事に発色し、それが荘厳な神の出現を思わせるので、そ
れに因んで後醍醐天皇は「御器」と命名し愛用したと伝えています。


即ち短冊の染筆者の侯爵四条隆愛の御尊父隆謌侯は、明治政体天皇
側の東征大総督府参謀兼仙台追討総督として戊辰戦争に参戦し、仙
台城を開城させ、東武天皇を降伏せしめた将軍で明治十三年、再び
陸軍少将として仙台鎮台司令官を務めました。


また染筆者の夫人は徳川第十五代将軍慶喜公の娘糸子でこの「御器」
のいわれを直接慶喜公に確認する事の出来た人物です。


戊辰の変に敗れた東武天皇知徳院様は国事犯とされ、明治政体府の
追っ手より逃れるべくふたたび法体(僧侶)の身となり寂光院と号
されました。






                  続く





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