第九章

新義大石寺

 日蓮佛法 本因妙行者名目の否定


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弾圧の表向きの原因は「法華宗に於いて本因妙の行者と申す名目か
って御座無き條」と日蓮正宗大石寺二十四世日永(1692〜1709、三
玄日典の弟子で堅樹院日寛の師)の誣告に依るものでしたが、日蓮
大聖人の正統佛教、三超院様の門流はこれ以降、百六十年の永きに
亘り新義異流とされ幕府より弾圧を被りました。


即ち弘化(1844〜1847)に頃の三超院様の門流は日蓮正宗大石寺四
十八世日量の書き上げ(富士宗学要集第九第十章異流儀 日量より
金沢信徒に送りし状)に次のとおりであります。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





           「正統天皇と日蓮」P121を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「本因妙の行者」云々は、日蓮大聖人の佛法の唯受一人の日目聖人
が御相伝された宗門の秘伝書



           『法華本門宗血脈相承事』



即ち日蓮正宗で「本因妙抄」(新編日蓮大聖人御書全集・創価学会
版・870頁)と称し最重要御書の一つに数えている御書の冒頭に



           『本因妙の行者日蓮之記』



と在ります。


それにもかかわらず何故





         「本因妙に行者と申す名目嘗って御座無き」




との不条理な返答が大石寺からよせられたかと言いますと



「日蓮正宗大石寺」は日蓮大聖人の正統佛法を受け継いだ真実の
大石寺では無く日永住持の大石寺は徳川幕府によって新たに建立
された中興天台義の寺であったが為に



           『本因妙の行者日蓮』



を知らなかった為です。


その原因は敬台院(小笠原秀政の娘で徳川家康の曾孫に当たり家康
の養女となり蜂須賀阿波守至鎮夫人となった)に京都・要法寺より
招かれた日精師は、この正統大石寺炎上事件の真相を知らず、始め
敬台院の言うがままに幕府と結託し正統大石寺を焼き討ちにせしめ
た張本人大石寺理境坊日義の血脈を相承して富士宮上条に新大石寺
を建立し、その住職と成られました。


時の経過の中で日精師は事の真相を知り大石寺正統の日秀聖人の御
門下と成られ、三超院様の許しを得て「本因妙大本尊」を模刻造立
し自ら開山の大石寺本堂に御奉安されました。


その事が開基檀那の敬台院に大石寺住持職を追放される原因となり
江戸に出て三超院様の本因妙佛法を下種弘経されたのです。


当然、大石寺の『三箇の大事』を含む日蓮大聖人佛法の全てが三超
院様に伝えられ三超院様が所持していたのですから、日蓮正宗大石
寺の日量(1817〜1820)が三超院日秀聖人の弟子としているのは、
当然大きな誤りです。


辻善之助博士は『日本仏教史』を著わされ、その第九巻第十章其四
の中で、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





           「正統天皇と日蓮」P121を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」







と、三超院様及び三超派を紹介しています。


この紹介の文は幕府・弾圧者側の一方的言い分の資料に依る物であ




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



即ち過去に正統大石寺が存在した吉原村大字依田原字大石寺の人で
あり、その教義は辻博士が




            「・・・・・・・・・・・・・・・・・」    






           「正統天皇と日蓮」P125を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml







と述べられている通りでその実態は全く知られておりません。


正統大石寺が吉原村に在った事は静岡地方法務局富士支局の土地登
記簿を以て現在も証明できます。


永禄十二年(1569)武田信玄が興国寺城攻めの為に大石寺に陣し大
石寺及び在家を焼く旨『甲陽軍記』に示されている大石寺は当然、
この吉原所在の正統大石寺事です。



尚、興国寺城とは伊勢早雲の一党が南主を守って立て籠もった


            「阿野舘」


の事で ここに南主正統皇を奉戴して再度国興しを計った事によっ
て阿野館は興国寺城とも呼ばれました。


日蓮正宗大石寺五十九世堀日亨師が「富士日興上人詳伝上」の第四
節「戒壇本尊奉受および禁庭への奏状」の項に、






「この御影が大石寺御影(いま房山にある)なりや東光寺御影と伝
称せられたものなりや、(以下略)」






伝説資料、『本尊問答抄』の奥書では、
本抄は文亀三年(1503)、日向にて日要の講の日杲の聞書なり、
今の奥は日杲なりや否やを知らず。
大石寺三箇の大事とは、


一、御影像
一、園城寺申状
一、御下文、    なり。
今は東台かいと(谷戸)(富士上野上条の東光寺なり)に之有り。



と述べています。



「東台かいと」の「かいと」とは「垣内」で堀日亨師のいう富士上野
上条の東光寺ではありません。


その所在は駿東郡根古谷にあった大城、即ち武府方の呼称、西陣
南帝東光院様建立の東光寺である事は日因師や日応師の文献を以て
しても明らかです。


即ち正統大石寺の三箇の重宝を含む日蓮大聖人の佛法の全ては正統
大石寺の奥の院として近世までここに隠し込められていました。


尚、東光院は江戸時代徳川幕府の弾圧で破壊され正統皇の正裔、小
野寺左京重興の士叡山大泉寺の塔中となり大泉寺と同一視され明治
の初年まで存在しました。


故に日蓮正宗大石寺第三十一代日因師の「有師物語聴聞抄佳跡上」
(富士宗学要集第一巻)には


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




           「正統天皇と日蓮」P127を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



と述べているのです。



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