第七章
小野寺氏とは
 摂政藤原道長苗裔


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「この世おば我が世と思う望月の・・・・・・・・・・・・・」






        「正統天皇と日蓮」P106を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml






と詠った摂政藤原道長の第六子大納言長家の裔で、道房の代に小野宮
清慎公と称された摂政関白太政大臣藤原実頼を祖とした小野宮中納言
資信の猶子となり、その第を継いで小野宮を家号としましたが、平治
の乱に藤原信頼に味方して敗れ道房は出家して小野寺入道義寛と称し
ましたが信頼加担の罪を以て下野国に流されました。


小野寺入道義寛が下野の地で田原藤太秀郷の嫡孫足利散位家綱の娘
を妻とし誕生したのが「平家物語」等で有名な禅師太郎道綱です。
道綱は寿永の合戦に源頼朝に加勢して以来、平家討伐に数々の武功を
たて、特に文治五年(1189)の平泉攻めに大河兼任の兵を陸奥国、
一迫に討って大巧を立て、頼朝より奥州新田郡の地頭職を拝領し、
その子孫は地名を冒し「新田小野寺殿」或は「新田殿」と呼ばれました。


鎌倉初期の小野寺氏の勢力に関しては妙本寺本「曽我物語」巻第六
の記録を以て窺い知る事が出来ます。


即ち建久四年(1193)に頼朝が牧狩りのため諸国の大名に勢籠の動
員を命じたのに対し千人を動員出来たのは





「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





        「正統天皇と日蓮」P106を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」





と記録しています。


この勢籠の動員力を以て、当時の小野寺氏の勢力を推察する事が出
来ます。


小野寺禅師太郎の子孫は代々左衛門大夫に敍任され、幕府に在って
供奉隋兵役を務め、そうして度々御調度役の大役に選ばれました。
鎌倉幕府殿中にあって将軍近習衆として名誉の御所の庇番役、御格
子上下番役に選ばれそれを代々努めました。


その経済力においては日目聖人が甲州身延山に登り、日蓮大聖人に
弟子入りした前年の建治元年(1275)五月、幕府が御家人に


『京都六条八幡宮造営』費用として


割り当てた負担に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





        「正統天皇と日蓮」P107を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





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とありこの割り当ての貫高を他の御家人と比較すると鎌倉幕府開府
以来多くの有力御家人が没落の憂目に会った中で、特に建久以来勢
力を八十年間にわたり維持し後代出羽に地に戦国大名として栄える
礎を貯えつつ在ったのでした。


新田小野寺氏は鎌倉幕府の終焉に幕府の重臣であった道綱の弟、
小野寺左衛門尉秀道の遺跡、出羽国千福地方(雄勝・平鹿・仙北)
をも合わせて支配するようになった事から、千福小野寺殿とも千福
殿とも呼ばれる様になったのです。


新田小野寺氏は日蓮大聖人の王佛冥合の教えを信じた為に後醍醐天皇
方に縁し鎌倉幕府崩壊の混乱の中で自らを滅亡から守ることが出来た
のであります。


尚、日蓮大聖人が甲州身延山に在った弘安ニ年(1279)、時宗の開祖
一遍智真が陸奥へ赴く途中、下野の国小野寺保を通貨した図が正安元
年(1299)法眼円伊に依って描かれ現在国宝に指定され残されており
ますが、その「一遍聖絵」に小野寺氏の栄華の一端を偲ぶ事ができます。


こうした支えの中で日目聖人は駿河の国富士郡大石ヶ原に日蓮大聖人
の御遺命を濁り無く守る為に、父、新田小野寺五郎重綱の遺領駿河国
富士郡大石の地に一族の協力のもと法華堂を建立しました。


大石ヶ原に建立されたところからこの法華堂は通称大石寺とも呼ばれ
ました。
大石ヶ原の地が新田小野寺氏の支配地であった事は







            「富士宗学要集第八巻」の


             (編者は堀日亨師)
  (発行者は池田大作氏)



(第二僧俗譲り状置き文及び官憲文書等)の23ページに「左衛門
尉等執達状」とありその内容は下記の通りです。



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        「正統天皇と日蓮」P109を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml






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この文書は富士浅間神社の神領の地頭職に関するもので即ち富士上野
郷の土地の地頭権に関する幕府問注所の指示書であり、日目聖人の御
生母蓮阿尼と甥の南条時光との土地の地頭としての支配権の争いであ
る事は文章の冒頭に


「富士の上方上野の郷一部の給主新田五郎後家尼蓮阿」
とあって確かです。


同年中に幕府の裁定が下り、新田小野寺氏の知行地として確定された
事はその後の官憲文書に明らかであります。




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