第六章
神璽相承の歴史

 正統皇と閏統


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富士山本門寺の開基、後醍醐天皇は曽祖父後嵯峨天皇の



       「太上不譲泰伯 而意在季歴」



のご遺言に基づいて自らを唯一の正統皇と自覚され、神・佛・儒、
三位一体の聖王を自らの理想の体として討幕を実行し「建武の新政」
を実現されました。


後醍醐天皇の理想と武家社会の価値観は大変に相違し、終に後醍醐
天皇は大和の遷幸され、吉野に国体の正統政府を開かれました。


不逞輩は、後嵯峨天皇が周室の故実「泰伯」に譬えて皇位の継承権
を断絶された後、深草院(持明院統)と曾孫豊仁王を擁立して、吉野
の正統政府に反逆し、吉野の正統皇を南主の呼びましたが南主の正統
政府では武府擁立の豊仁王(光明院)の政体府(一般に北朝と云う)
と全く認めていません。


また、南主後村上天皇の御代、正平六年(1351)に武家に擁立され
た豊仁王一族は子孫の皇位競望を自ら断たれました。


この件についえて政体府の主権者、足利義満・義持・義教三代の護持層で
あった准后満済(摂家二條庶権大納言権師冬息)


の日記の永亨五年(1433)十二月二十三日の条に・・・・・・・・








          続きは「正統天皇と日蓮」P92を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml







・・・・・・・・・・・と、記録されている通りで武府擁立の
持明院統は高祖後嵯峨天皇のご遺言及び量仁王(光厳院)・豊仁王
(光明院)の兄弟並びに量仁王の子息、興仁王(崇光院)の誓紙等ど
れを取っても皇位の継承権は全く存在しません。


しかし、幕府は量仁王の子息弥仁王を武府の政体の主体として立て、
吉野の正統政府に武力を以ての既成事実をして和平を申し入れて来
ました。


吉野の正統皇、後亀山天皇は長い戦乱に国民の困窮極まりあるを観
て政体府方の言上、



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一、後亀山天皇は護国の儀式に依り神器を持妙院統の後小松院に
  渡す。


一、皇位は大覚寺統(国体)と持妙院統(政体)の両統が交互に
  継承する。


一、諸国の国衛領はすべて大覚寺統が支配する。


一、長講堂領はすべて持妙院統が支配する。



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を受け入れ、この約束に随って正統皇後亀山天皇は護国の礼を以て
神器、すなわち「神璽」を武府擁立の持妙院統の後小松院に授けら
れたのです。


そうして後亀山天皇の皇子、小倉宮が後小松院の東宮として立たれ
ました。


ところが持明院等では和議の絶対条件で在った「両党迭立」の約束
を反故にして応永十九年躬仁王を即位させましたが、称光院(躬仁王)
は正長元年(1428)、二十八歳で崩御したので東宮の後亀山天皇の皇子
小倉宮は合一の状件、「両党迭立」の約束の履行を強く主張したした。


ところが武府方では吉野の正統政府に「吾子孫 帝位の競望有すべ
からず」の誓紙を差し入れそれを状件に助命された興仁王を三宝院
大僧正満済(摂政家二条庶流今小路権大納言師冬の息 足利義満猶子)


が奇策を以て称光院の猶子に仕立て即位させました。


皇位継承の資格の全く無い彦仁王(後花園院)の即位に南主の遺臣
達は正統政府再興を計り、小倉宮(招慶院太上天皇)の皇子尊義親王
を擁立し、萬寿寺宮金蔵主を総大将に仰いで嘉吉三年(1443)九月、
錦旗を掲げ「神璽」を武府擁立の持明院等より回収し、尊義親王は
吉野に正統皇として即位しました。


これに対して武府擁立の持明院等方では嘉吉元年(1441)に将軍、
足利義教を殺害した罪で没落した赤松残党に「神璽」奪回を条件と
して赤松再興を認める旨を告げ、赤松残冬は決死の覚悟で吉野に潜
入し深雪の中、長禄元年(1457)十二月、目指す南主の御所に討入
りその目的を果したと「上月記」には、「・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





             続きは「正統天皇と日蓮」P94を参照
              http://syohnan.jp/nitiren.shtml






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


と記しております。
吉野の諸記録には、この時南主の一宮は十八歳であったと伝えています。


そうして正統皇統はこの事件を以て全て絶えたと巷説に伝えており
ますが、持明院統方の最高責任者九条関白藤原経教の息で大和の興
福寺大乗院の門跡であった大僧正教覚(安位寺殿)日記の長禄二年
(1458)四月十六日の条に、「・・・・・・・・・・・・・・・・







         続きは「正統天皇と日蓮」P94を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


と記録されています。


『上月記』の記載と『安位寺殿自記』の記載とでは記録の内容が大
変相違しています。


事実に照らすと、安位殿の記録が真実です。


「上月記」が討ち取ったと記載する一宮は『神璽』を帯して正統皇
として吉野に即位し自天皇と号して吉野の地より「奥」の地に遷幸
されました。


ここで云う「奥」とは「満済准后記」の応永三十四年(1427)八月
十日の条に


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




        詳しくは「正統天皇と日蓮」P95を参照
          http://syohnan.jp/nitiren.shtml



と示されている陸奥、特に出羽の地方、現在の秋田地方を指しました。
「上月記」にいう吉野北山に崩御された「一宮」とは、その御所址に
営まれた瀧川寺に伝えられている経巻の奥書に、







             「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




        詳しくは「正統天皇と日蓮」P96を参照
          http://syohnan.jp/nitiren.shtml





と示されたいる通り南天皇(尊義)御自身の事です。


長禄元年(1457)、出羽に遷幸された正統皇自天皇は千福小野寺
中務少輔家貞の娘を娶り、その援助を得て雄勝・平賀・仙北の四隣
を平定し、武府方より出羽王を呼ばれました。


家定の娘を母として誕生した皇子は応仁の乱に入洛して西陣に南帝
(東光院)として即位されました。
今日、秋田県南部地方で小野寺中務大輔泰道の事蹟としていますの
は自天皇と千福小野寺中務少輔家定の御事蹟のことです。



この自天皇の皇子に付いては武府擁立の持明院統方の最高責任者、
一条関白藤原兼良の息で大乗院門跡と成った大僧正尋尊自記の文明
三年(1471)閏八月九日の条に「・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






詳しくは「正統天皇と日蓮」P96を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




と記録しています。


自天皇の皇子は応仁の乱に西陣に即位し文明五年(1473)に至り、
西軍の総大将山名宗全・東軍の総大将細川勝元が相次いで病に倒れ
両軍の軍勢は自然に四散し、南天皇は千福小野寺氏と共に越前に遷
幸され越前で東軍に降った朝倉隆景、氏影勢と戦われましたが文明
六年閏五月十五日、桶田・波着・岡保の合戦に千福小野寺中務少輔
は崩河に生害しました。


足利義政が朝倉弾正左衛門尉に宛てた感状「古今消息集」には、


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






  「正統天皇と日蓮」P97を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


とあります。
南天皇は越前より千福中務少輔の遺臣に奉じられ出羽国千福に帰還
されました。


文明十一年(1479)に太上天皇(自天皇)と南天皇(東光院)は再
度出羽の地より京都に赴かんと北陸道に兵を進められました。


しかし随った軍勢は長征途中で四散し王政復古の望みは達せられま
せんでした。
この南主の西征上洛に関して武府擁立のじみょういん統の事務官僚
の首領で在った「壬生晴富宿祢記」の文明十一年(1479)七月十九日
の条に、




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




  「正統天皇と日蓮」P98を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





と記録しています。




当然、越後の北方は出羽の地であります。
次いで、同書の同月三十日の条には




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




  「正統天皇と日蓮」P98を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





とあります。


長禄元年(1457)十八歳で在られた吉野の南天皇(御諱)の一宮、
自天皇は文明十一年(1879)に丁度「壬生晴富宿祢記」の記録の
通り四十歳に成られました。


この様にして再度入洛を果された自天皇父子は山城国男山八幡の
田中庄に留まり世を窺がわれましたが南風競わず太上皇(自天皇)
は終に失意の内にここに崩御あそばされ、八幡の神応寺山内に葬ら
れました。


同年八月十五日南主の廷臣伊勢の国司北畠政郷は子息、具方の元服
に寄せ男山八幡に参詣し、南天皇は政郷に奉じられ伊勢に遷幸し之
より伊勢の地に七年の歳月を過ごされました。


この間、北畠一族にも次第に武府に心を寄せる者が現れ南天皇(東
光院)は伊勢より駿河国駿東郡阿野庄に遷幸されました。


阿野庄は後醍醐天皇の皇后新待賢門院阿野廉子の名字の地であり、
阿野舘は富士沼が侵食し浮島の様な地形をした要害で、日目聖人の
御遺命を奉じた千福小野寺党が、王佛冥合の理想を掲げて武府に加
担し大石寺坊地を横領した南条・保田方と対立しこの阿野舘に移っ
て日蓮大聖人より日目聖人が御相伝した大石寺の重宝の一切を守護
していました。


南天皇が同年十一月、御島(阿野舘)に着かれました事は「勝山記」






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




  「正統天皇と日蓮」P99を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





と記録しています。




『小野寺譜』に


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




  「正統天皇と日蓮」P99を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





とあり明応の年号は公・武両方で称し南朝の明応は公歴1469年十一月
二十一日に始まり武府方の明応年号の使用は公歴1492年七月十九日に
始まります。


西陣南天皇の三島への入部は明応十八年頃と推測されるのに対して
『小野寺譜』の明応年号はその成立過程からして武府年号と推定さ
れ『勝山記』の明応年号は南朝歴の明応十八年を転写時に数字を誤
脱したものと考えられ、明応十八年は武府方の文明十八年(1486)
に当たります。


ここでいう三島とは「御島」という意でその謂われは鎌倉幕府の開
府者源頼朝の弟、阿野前司の舘で在った事から「御舘」とも呼ばれ、
富士沼に浮島の如く突き出ていたので「御島舘」「浮島舘」とも称
されたのです。


御島舘に入部した南天皇は伊勢早雲(北条)に擁立され、後、相州
小田原の地に遷座され崩御し、早川の海蔵寺山内に葬られました。


この南天皇の「阿野御所」を保田の妙本寺の日要師は



           「東台かいと」



と呼んでいます。


即ち、「東台かいと」の「かいと」とは漢字では「垣内」と書き、
舘という意味で日要師の立場から言えば大石寺(現在の富士市依田
原字大石寺)東方の台地に土壘を廻らした所、即ち、「城」という
意味です。


故に日要師は文亀三年(1503)日向に国で弟子達に日蓮大聖人の
『本尊問答抄』を講義し、その講義の砌『大石寺三箇の大事』に付
いて


 「御影像・園城寺申状・御下文、今は東台かいとに之有り」

  (堀日亨著富士日興上人詳伝<上>第三章、第四節戒壇本尊
   奉受および禁庭へ奏状)


と言及しています。






この『大石寺三箇の大事』とは日蓮大聖人より
『妙法蓮華経嘱累品第二十二』に於ける総付嘱を受けた白蓮阿闍梨
日興師が入滅に先立ちその本弟子達に残された御遺言に、


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





  「正統天皇と日蓮」P101を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


とあります。


大石寺三箇の大事とは日蓮大聖人佛教の根本重宝のことです。
これ等の重宝は本門寺の成立によって日興師のご遺命のとおり、
本門寺本堂に納められ本因妙大本尊様とともに正統に日目聖人の
管理となりました。


即ち、『日興跡條々事』に、



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





  「正統天皇と日蓮」P101を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



と日興師の遺言にあり、本門寺成立の後はこれ等の大石寺三箇の大事
は日目聖人嫡々の相承、管理と定められていました。


この嫡々相承の意味する所は小野寺五郎日目聖人・小野寺次郎日道
上人・小野寺幸松丸日行上人と受け継ぐ日目聖人の血筋の中の嫡々
相承のことです。

その理由は大石寺の坊地は小野寺禅師太郎道綱を祖とする日目聖人
の生家の一所懸命の土地だったことによります。

その小野寺氏が日蓮大聖人の王佛冥合の教に随って行動した事で、
出羽の地で正統皇統と合体し、合体した血統は応仁の乱を経て再度
駿東の地に至り駿東の地で日蓮大聖人の佛法を奉持し実体の王佛冥合
となりました。



千福小野寺氏と血の合体をした南天皇の皇孫は戦国の末期、正統皇統
の天子として日蓮大聖人の「本因妙大本尊」と「伝国の璽」である
「三種の神器」を駿東郡根古屋の地に奉祀し、「天下の太平」を願い
「立正安国」を説かれました。


この件に関して慶應義塾大学講師の村上重良氏は「日本宗教辞典」
(講談社発行)に


「室町時代から江戸時代にかけては、三種の神器を日蓮の三大秘法
(本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇)とする日興門流(以下略)


と紹介しています。


この紹介文の「日興門流」との呼び方は誤りであります。
日蓮大聖人の正統佛法を伝え興す、、、と言う意味で「蓮興寺法華
道場」と称しました。


出羽で小野寺中務少輔家貞の娘を母として誕生した西陣南主(弘慶)
は、家伝に依れば伊勢長氏の奉じられ伊勢より駿河に遷幸したとも
伝え、大内氏より文明の頃、南主に献上され南主より伊勢の長氏に
下賜したと云う、世に早雲寺銀欄と呼ばれて現在国指定の重要文化
財となっている銀欄と同じ品で、南主使用と伝える帯や北条氏の印
判等が今に南主小野寺家に伝えられています。


伊勢の長氏の生国に関して諸説が伝えられていますが、早雲が永正
三年(1506)に信濃守小笠原定基に宛てた書状に、小笠原家臣の出
自は自分と同じ伊勢国で自分と同族であると述べているので、その
出自が伊勢である事は毫も疑いをはさむ余地はありません。


「勝山記」に「早雲入道軈テ相州へ相賜也」と記載し早雲と伊勢の
関係を「北条記」に巻第四には「伊勢国司之事」として





「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





  「正統天皇と日蓮」P104を参照
        http://syohnan.jp/nitiren.shtml





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




と記しております。


そうして小野寺氏一門には南主の駿河遷幸後も伊勢北畠氏の客分と
して伊勢に代々居住した一族がおります。


駿河の阿野御所の廓の中の蓮興寺法華道場の東側に「北畠」という
字名が現在も存在しており、伝説ではその処が伊勢北畠氏一門が移
り住んで南主を守った屋敷跡と伝えています。


また、『小野寺譜』に「小野寺左衛門佐道景が明応四年小田原合戦
に生害」とある小田原は相州小田原の事でそれは、伊勢早雲が大森
氏を小田原城に攻めた戦であり、当然南主に従った小野寺氏は伊勢
氏と共に小田原攻めを行ったものと推定されます。


即ち『勝山記』の「送り賜う也」とは伊勢早雲が相州小田原に南主
を「迎え賜う也」という意味であり、その記録は南主小野寺家に伝
える説を裏付ける一端といえましょう。




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