第五章
予言の的中

 日蓮法華の公認


日蓮大聖人が下総の富木常忍に宛てたお手紙に


  「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と言う」

と仰せられていますが、日蓮大聖人が『法華取要抄』に予言された


               「臣・王を犯す」


の事態が御言葉通り、元弘ニ年(1332)三月に起こり、臣下の鎌倉
幕府執権北条氏の為に後醍醐天皇は捕えられ、隠岐に配流されまし
た。



          「一国に二の国王並ぶ」


の日蓮大聖人の御予言通り、幕府に擁立された持妙院統の量仁王
(光厳)が践祚され我国有史以来、未曾有の


          「一国に二人の国王並ぶ」



の事態が発生しました。


これはまさしく、日蓮大聖人が御予言された



「是の如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之
を建立」



する前兆でした。



後醍醐天皇は隠岐の国の行在所にあって天皇としての強固な自覚の
もと、討幕と皇威と回復を念願として諸国の寺社に密かに願文を認
めて所願の成就を願われました。


富士大石ヶ原の法華寺大坊に」下された後醍醐天皇の願文には





          続きは「正統天皇と日蓮」P81を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml





、、、、とあって、ここで言う「・・・・・・・・・・・・・」


とは幕府の滅亡であり自らの京都遷幸です。


日蓮大聖人は『立正安国論』に「仁王経」を引用して






          続きは「正統天皇と日蓮」P81を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml






、、、、、と仰せられています。


『立正安国論』に予言された、六の難は元弘元年(1321)の夏、





  「大旱地を枯らして田服の外百里の間空しく赤土のみ在り」




の状況となり、七つめの難は、文永・弘安以来外寇風説絶える事な
く、又「同(元弘二年)年七月三日大地震有て紀伊国千里浜の遠干
潟、俄に陸地に為る事二十予町也、又同日の酉の刻に地震有って富
士の絶頂崩るる事数百丈也」 (太平記)


との自然災害が発生し、これ等の現象は大聖人の「立正安国論」の
御予言にそのまま符合し、この状況に相俟って討幕の声は自然に高
まり、終に河内に楠正成が挙兵して六波羅勢はその鎮圧に醜態を晒
し、幕府は中務大輔北条俊時、名越遠江前司北条宗教、金沢右馬助
北条貞冬、武蔵左近大夫将監北条政高、常葉左近将監北条範貞、陸
奥右馬権助北条家時等を大将として六波羅加勢の兵を上洛させたが
その成果は上がらず、幕府の威信は地に落ち、世間は騒然となりま
した。


この事件は、これに呼応して護良親王は吉野に挙兵し、楠正成は
河内国千早城に拠り、播磨の豪族赤松則村は綸旨を奉じて山陽・山
陰の両道を塞ぎ都を狙い、終に元弘ニ年(1332)の冬に至って後醍
醐天皇勢は旭の登る勢いとなりました。


後醍醐天皇の討幕の願いは元弘三年(1333)五月七日、北条左近
将監時益・北条越後守仲時等の守る六波羅が陥落に、鎌倉府は新田
義貞の率いる奥羽、関東の兵勢に五月中旬稲村ヶ崎・化粧坂・巨福
坂の嶮を破られ同月二十二日、得宗北条前相模守高時入道崇鑑は連
署左馬権頭茂時等の一族郎党とともに自刃して果てたのです。


後醍醐天皇は五月二十三日伯耆国船上の行在所を発って六月七日
京都二条富小路の内裏に遷幸し治天下の君として直ちに親政を行わ
れました。


ここに日目聖人は日蓮大聖人の遺弟として日蓮大聖人の御遺命を滞
りなく果たさんが為に再度次ぎのような請文を認められました。





          続きは「正統天皇と日蓮」P83を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml






日目聖人はこの請状を携えて、宰相阿闍梨日郷、大夫阿闍梨日尊を
お供に引きつれ、上洛の途に就かれました。


元弘三年五月三日後醍醐天皇が伯耆国船上山で千種忠顕に示された
『軍中法』の綸旨(郡書類従所収・光明寺残偏)には、






          続きは「正統天皇と日蓮」P84を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml





との旨を記しています。


この後醍醐天皇の綸旨の趣旨を踏まえるならば、後醍醐天皇が都へ
帰還された元弘の日目聖人の上洛は当然の事です。


そうして又日目聖人に本門護国寺の勅宣が下され日目聖人が国師と
して二位法印に叙されたのも当然といえましょう。


日目聖人は元弘三年(1333)十一月十五日、白雪に覆われ一面に
目映いばかりに輝く日射しの中、美濃国垂井の宿に「本門寺」認可
の勅宣を賜るために上洛の途上御遷化されました。


日郷・日尊の両師は日目聖人の御遺体を荼毘に附し御灰骨を抱きか
かえ翌春、建武元年(1334)正月入洛しました。


冶天下の君と為られた後醍醐天皇は「王佛冥合・立正安国」の日蓮
大聖人の主張を深く思し召されて本門寺建立の寺地を賜り、本門寺
建立の資として越前国千福・別印以下・数ヶ庄を賜りました。


それを以て有縁の地、駿河国富士郡に本門寺根本道場が卜され、
鎌倉府庇番小野寺遠江守道親が造営奉行に任じられて本門寺の建立
が始められました。


これより後醍醐天皇から賜った本門寺御料所は織田信長の時代まで
本門寺の俗別当を命ぜられた千福小野寺氏によって代々受け継がれ
豊臣秀吉の時代に失われました。


また同時に後醍醐天皇は叡慮を以て、日目聖人を国師に準じられ
二位法印の位階とともに


           「千福阿闍梨」


の号を御宣下賜わり、その証として


          「篠梧文の紫子袖」


を富士大石ヶ原法華寺大坊に下し賜りました。


日蓮大聖人は「紫衣」について『諌暁八幡抄』に、、、







          続きは「正統天皇と日蓮」P86を参照
            http://syohnan.jp/nitiren.shtml







、、、、と示しています。


八幡大菩薩とは応神天皇のことでありこの故実にならって「紫衣」
は勅許の尊貴なものとして、専ら天皇が僧侶に対する親任の証とし
て用いられました。


応神天皇の当体者が後醍醐天皇であり、そうしてその自らの名乗り
も法華経本門の後醍醐味と言う事です。


特に日目聖人が後醍醐天皇より賜わった「紫衣」の衣文が示す所は
「篠」は「歳寒三友節操在り」と古来称されて聖人の人格を現す植
物として扱われました。


「梧」は鳳凰の集まる唯一の嘉木とされ、この鳳凰は聖人が現世に
出現する時にのみ、その前兆として世に現れると言い伝えられてい
ます。


我国では古くよりこの「鳳凰」は「鶴」に擬せられてをり、故に
当山「本門寺」の標は王佛冥合の寺として


           「十六弁菊花と鶴紋」


を使用しております。


即ち、この「紫衣」の意味する拠は、後醍醐天皇が日蓮大聖人を


           「法華本門の聖人」


として公に認めたという証であり、日蓮大聖人の佛法は御遺命の
如く、ここに始めて公認されたのでした。


故にこの「紫衣」は都に在った日尊師より早速に富士へ送り届けら
れました。


日道上人が日尊師に宛てた御返状には、、、、








         続きは「正統天皇と日蓮」P87を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml







、、、、とあり、


とあり文中に「・・・・・・・・・・」とありますがこれは



          「・・・・・・・・・・・・」



と読むところで、その文意は大法の広宣という意味です。
これに続いて日尊師より富士の大坊へ勅宣下向の報せがもたらされ
てきました。


念願の「本門寺」勅許の官符を携えた勅旨は六月七日、富士大石ヶ
原の法華大坊へ到着されました。


勅旨到着の様子は大学民部阿闍梨日盛に宛てた御手紙に、、、、







          続きは「正統天皇と日蓮」P88を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml






、、、、、、、、とあって「、、、、、、、、、、、、、、、、」





とあります。


この文章は天皇の御所を「、、」とも「、、」ともいい、「、、」
とは即ち「、、」と同義語で此拠で謂う「、、」とは勅旨を指し
「、、、」とは勅旨が富士の大石ヶ原法華大坊に臨まれた事を示し




           「、、、、、、」とは




日蓮大聖人の佛法が正式に公許を受けたと謂う事を意味しています。


そうして「、、、」とは「そらごとにあらず」と読み、このことは
真実であると、特に強調しています。


勅使は宣旨と共に宗近の鍛えた業物に後醍醐天皇自らが「宝寿丸」
と命名した黒作懸太刀を日蓮大聖人の御宝前に捧げられました。


その由来は法華本門の「法」を佛法の至宝として「宝」の雅文字を
宛てて顕し正法の一閻浮提の広宣流布の永遠を「寿」と顕し、日蓮
大聖人の佛法の円融円満を「丸」として顕して



                  「宝寿丸」



と命名されたと謂われています。


後醍醐天皇はこの剣を以って草薙、即ち日蓮大聖人の佛法の「破邪
顕正」の絶対正義を認めて下し賜ったといわれています。


抑も黒作懸太刀授刀の由来は、大和朝廷の昔、草壁皇子より廷臣
藤原朝臣不比等が親任の意を籠めて給わったのに始まり持統天皇
の十一年(697)八月一日、草壁皇子の息 文武天皇の即位に当り
不比等はこの太刀を文武天皇に献上し、文武天皇崩御の時、再び
不比等にこの太刀は下賜されました。


不比等薨去の砌り、不比等の遺族は草壁皇子の妃、元明天皇にこの
太刀を献上に忠節の意を表しました。


これ以降、「黒作懸太刀」は天皇の臣下に対する絶対的親任の証と
して下賜される事になりました。




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