本門正宗とは




      ■ 本因妙大本尊と弥四朗国重と大曼荼羅 ■



御本佛日蓮大聖人は文永十一年(1274)『法華取要抄』を著されて
法華経の最大事を


問うて曰く、
如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法
は何者ぞや、


答えて曰く、
本門の本尊と戒壇と題目の五字となり


問うて曰く
正・像等に何ぞ弘通せざるや


答えて曰く
正・像に之を弘通せば小乗・権大乗・亦門の法門・一時に滅尽す可き
なり


問うて曰く
仏法を滅尽するの法何ぞ之を弘通せんや


答えて曰く
末法に於いては大小・権実・顕密共に有って得道無し
一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経に限る、
例せば不軽品の如し、我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり。


疑って曰く
何ぞ広略を捨て要を取るや、


答えて曰く
玄奘三蔵は略を捨てて広を好み四十巻の大品経を六百巻となす、
羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻の大論を百巻と成せり、

日蓮は広略をすてて肝要を好む 所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の
五字なり。



と『妙法蓮華経』の「本尊」を明らかに示されたのであります。



御本佛日蓮大聖人が「広略をすてて肝要を好む」との仰せは『法華経
如来寿量品』に

  「父(日蓮大聖人)見子等苦悩如是依諸経方求好薬草色香美味皆
   悉具足擣(とうし)和合」


と示される所であり「擣(とうし)和合」の結果、文永十一年十二月、日蓮大聖人
に依って著されたのが『如来寿量品』に「此大良薬」と示される所の通称
「萬年救護本尊」と称される「控字大本尊」であります。


なぜ之の紙本の通称「萬年救護本尊」(現在、千葉県保田・妙本寺蔵)を
「控字大本尊」と云うかと言いますと『如来寿量品』には「此大良薬」の
文句に次いで

   「此好色香而謂不美」


と示されております。
それ故に


    「父(日蓮大聖人)作是念此子(衆生)可愍為毒所中心皆?倒
     雖見我(日蓮大聖人)喜求索救療如是好薬而不肯服我(日蓮
     大聖人)今当設方便」



示されているのであります。


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「控字大本尊」の「控」とは「用にあてるために備えること」とい
うことで『如来寿量品』に「我今当設方便」とある「本因妙大本尊」
即ち「お型木大本尊」の控えであることは『如来寿量品』に


『我(日蓮大聖人)今当設方(板)便令服此薬即作是言汝等(衆生)
等知我(日蓮大聖人)今(弘安二年)衰老死時巳至是好良薬(本門
題目)今(同年十月十二日)留在此(本因妙大本尊)汝(日目上人
を手継として再誕の日目)可取服勿憂不差作是経巳復(弘安五年十
月十三日)至他国遣使(再誕の日目)還告(本門の題目)』

ということなのであります。


ですから、当然「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」とは御本佛
日蓮大聖人が「今留在此」なされた「本因妙大本尊」にのみ示され
る所の「本門の題目」即ち「波動」ということであります


故に「本因妙大本尊」が本門戒壇に奉安置されるべき唯一の「大本
尊」であることは大聖人が『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』に


「此の本門の観心、南無妙法蓮華経の五字に於いては仏猶文殊・薬王
等にも之を付属し給わず 何に況や其の已外おや。
但、地涌千界を召して、八品を説いて之を付属し給う。

其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経
の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士には上行等の四菩薩、文殊
弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化・他方の大小の諸菩薩は
万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処
し給う。」

とあります。


この「宝塔空に居し」とは「本因妙大本尊」を示していることは
その前の文に

       「本師の娑婆の上に」

と  あることに依っても明らかであります。


ここで云う本師とは「我れ慈父」の娑婆実在の如来、日蓮大聖人
ご自身の事なのであります。
またこの「宝塔」に顕されるべき体を御本佛は『妙法蓮華経見宝塔品』


  「皆令清浄無有地獄 餓鬼 畜生及阿修羅又移諸天人置於多土」


と仰せられており真に「本因妙大本尊」に於いてのみ此の体を具え
ているのであります。


これに対して日蓮正宗総本山大石寺の本堂奉安置の「本門戒壇の大
御本尊」と
          自称する

楠板彫刻の「大曼荼羅」は四悪趣総在の「十界曼荼羅」であり、その
添書きに


  「右現当二世の為に造立件の如し

   本門戒壇の願主弥四朗国重、法華講衆等敬白


    弘安二年十月十二日」



と、ある在る旨を同寺の五九世法主堀日亨師は「富士宗学要集第八巻」
に示されております。

「右現当二世」の右とは当然「弥四朗国重願主の大曼荼羅」を示す
所であります。


次いで「現当二世」とは日蓮大聖人の随他意(迹門の化導の説)
『下山兵庫五郎殿御返事』に「教主釈尊より大事なる行者を法華経
の第五の巻を以って日蓮が頭を打ち十巻共に引き散らして散散に踏
みたりし大禍は  

          現当二世

にのがれがたくこそ候はんずらめ」


とある如く「現在世(現世)と当来世(来世)」の意でありこの思想
は念仏者である下山兵庫五郎の為に日蓮大聖人は述べられたのであって
『法華経如来寿量品』には

   「如来如実知見三界之相無有生死若退若出」

とあり故に「自我偈」には

   「速成就佛身」


と あるのであります。


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即ち「現当二世」の説は日蓮大聖人は『立正安国論』に


   「仏涅槃の後、正法を世に住(とどめる)こと無量億歳。
    余の四十年の仏法未だ滅せず。

    爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と曰う。

    爾の時に多くの破戒の比丘有り、是の説を作すを聞いて
    皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師を逼む。


    是の時の国王の名を有徳と曰う。


    是の事を聞き已って護法の故に即便(すなわち)説法者
    の所に往至して是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。


    
    爾の時に説法者厄害を免るを得たり、
    王、爾の時に身に刀剣鉾槊(せんさく)の瘡を被り躰に
    完き処は芥子如き許りも無し。


     爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言く、

    善きかな 善きかな王今真に是れ正法を護る者なり、


    当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし


    王、是の時に於いて、法を聞くことを得已って心大歓喜し
    尋いて即ち命終して阿しゅく仏の国に生ず。
    而かも彼の仏の為に第一の弟子と作る。


    其の王の将従・人民・眷属・戦闘する事有りし者、歓喜
    する事有りし者、一切菩提の心を退せず命終して悉く
    阿しゅく仏の国に生ず」


と仰せられています。


「余の四十年の仏法未だ滅せず」とは佛の経の爾前・迹門の時、
即ち「随他意」としての教の中にであり日蓮大聖人の御生涯の中で
此の有徳王・覚徳比丘の故事を探ると弘安二年に起こった熱原の法
難があります。  


そして法華弘経の故に不当に弾圧された越後房日弁・下野房日秀
(持戒の比丘)に対する激励文の中に次の一句があります。


   「下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心
    の行人・四郎男(熱原郷の住人)を刃傷せしめ去る八月
    弥四朗男(富士上方の政所代新田小野寺弥四朗国重=日
    目上人の従兄なり)の頸を切らしむ。

    (日秀等に頸を刎ねる事を擬して此の中に書き入れよ。)


と仰せられており当然新田小野寺弥四朗国重は覚徳比丘(日秀)を
護り護法の為に生害した上方庄一分の地頭でありますから「有徳王」
に当たる訳であります。


また日興上人の「白蓮弟子分与申御筆本尊目録事」に「富士下方熱
原郷の住人神四郎兄、富士下方同郷の住人弥五郎弟、富士下方熱原
□□□□□□朗、此の三人は越後房・下野房の弟子廿人の内なり」


とある面面が日蓮正宗大石寺で本尊としている「大曼荼羅」に示さ
れる「法華講宗」の内容なのであります。


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即ち、日蓮正宗大石寺の大御本尊とは「涅槃経」の有徳王・覚徳比丘
の意を受けて法に殉じた

        『弥四朗国重並びに熱原郷の法華講衆』


をして大聖人は


          『本門戒壇建立を願う主』


として「大曼荼羅」を認めたのであり『本因妙大本尊』を奉安置す
べき『戒壇』の勅許を 「請い願う主」 という意味であります。



さて、その意を受け、時に当たって日蓮正宗の信徒団体では日蓮正宗
総本山大石寺の象徴である阿部日顕師を


           「三宝破戒の重罪人」


と称しながら、その実、「会員」と称する信者は日顕師が顕した
「大曼荼羅」を 「ご本尊」 と称して朝に晩に信仰上の化儀を行って
いましたが近頃はまた江戸中期の大石寺法主日寛師の曼荼羅に変更
して再度、重大な誤りをくりかえしています。


これ等の行為こそ 「支離滅裂」 頭破七分の実態であり法華経を
誹謗した人々に生じる生命現象なのであります。


即ち、法華誹謗の罪とは自らの行為が道理に叶っているか否かの
知的判断を自ら行うことが出来なくなってしまうのであります。


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故に、阿部日顕師はその先代責任者の堀日亨師が


    『富士日興上人詳伝』で『家中抄』を評して


  「精師(日蓮正宗大石寺十八世日精)の『家中抄』は
   さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ
   形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自
   己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる。
   


   例を徳川時代の院本類に取ると、その題材が源平時代
   であろうが、鎌倉であろうが、足利であろうが、戦国
   時代であろうが一向お構いなしに作者の時代に基ずい
   た頭で、背景でも衣装でも性格でも偽作する。


   純文学や史学良心を忘れて幼稚なる客観本位で著作す
   るからであるために、ややもすれば、史実を歪曲して
   故人を褒貶し過ぐることになり、一般民衆を迷惑せし   
   むる。


   仏教家の史談も、強ちにこの傾向のものばかりではな
   かろうが、教化的効果のあがるように俗受けのするよ
   うにとばかり考えてこしらえたものが多いようである。


   『家中抄』の御筆も、いささかこれに類するやに思う
   がとにかく宗門人の史談の種本が精師以後、今日にい
   たるまで、『家中抄』そのまま、またはここに輪を掛
   けた俗悪底流の物の多きを顧みて、いまの引文をここ
   に批判するの止むを得ぬにいたり」 云々、



と述べられており、
この  堀日亨師  の論 に対して日顕師の先師 日達師 は
その「序」に於いて



   「富士日興上人詳伝は、日亨上人が長年の研鑽のうえ、
   深い考慮のもとに、しかもできるだけ史実によって正鵠
   を期して執筆せられたのである。」



と、評されております。  即ち、
堀日亨師の云う通りであると 日達師 も 太鼓判 を
押しているわけであります。



堀日亨師や細井日達師が太鼓判を以って


 「無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐった書物」


            『家中抄』を



阿部日顕師は 先師達 と全く正反対にそれに全面の信を置き
大石寺機関紙 

        「大日蓮 平成三年十月号」に



   「これについては当宗においても『家中抄』の主旨
   を尊重して『日蓮正宗富士年表』に記載しておりま
   すように、大聖人御自身がずっと御所持あそばされ
   ていたということは、そのとおりであります。


   そこで「十月十二日」という語は『家中抄』にない
   にもかかわらず、戒壇の大御本尊様造立の弘安二年
   十月十二日に十月十二日が自ら萬年救護本尊を表も
   裏も彫刻して、特に裏には本因妙大本尊という名前
   を付けられたということを言っておるのです。


   この十月十二日という日付は、これに基ずく以外に
   論拠はないはずであります。


   そのような勝手な推断でありますから、偽物であると
   いうことがはっきりと露呈し、特に妙信講のほうから
   も破折されたので、、、」



と、意味不明な論を展開し、そして、日顕師は勝手な推断に立って
私への悪口を書き並べ、それによって己を正当化しようとしていま
すがそれで正当化できると思う命が法華経に云う

            「狂子」


そのものなのであります。


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重ねて云えば現大石寺で本尊と称している大曼荼羅の添文が

  
       「本門戒壇之願主、弥四朗国重」


であることは種々の記録に明らかであります。
そうして日蓮大聖人の 「三大秘法」とは


      「本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目」


であり、当然本門の本尊と本門の戒壇とは別個のものであり、
本門の戒壇とは本門の本尊を奉安置すべき場を示したものであります。


即ち、弥四朗国重大曼荼羅には


           「本門戒壇之願主」


と在るのでありますからそれは日蓮大聖人の御遺命を奉じて帝に
本門寺の勅許を請願する檀家総代の

          
            「弥四朗国重」

と云う意味であることは確かであります。


そして、「本門の本尊」が日蓮大聖人ご自身のご造立にかかるもの
である事は『観心本尊抄』に


  「今に示す自界叛逆・西海侵逼の二難なり  此の時、地涌千界
   出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に
   立つ可し 」

とあり明らかであります。


それに対して、「本門の戒壇」は『三大秘法抄』に大聖人が示された
所に依れば大聖人の後の人々が勅宣・御教書を仰いで建立する所のも
のであります。


そして一閻浮提第一の本尊は文永十一年十二月に日蓮大聖人に依って
ご図顕されましたが『如来壽量品』には此の時、日蓮大聖人が「擣?
和合」あそばされた「此大良薬」は多くの者に於いて「而不肯服」で
故に「我今當設方便」したものを「令服此薬」とあります。


此の「我今當設方便」の「此薬」が 「本因妙大本尊」様であります。


そして日蓮大聖人の「我今當設方便」の時を「「我今衰老死時已至」
の状態を人々に示してと在り日蓮大聖人のこの姿を示された時が弘
安二年なのであります。


そして同年九月には寂日房にお別れのお手紙を認められておりまうす。


丁度、この年熱原の法難が発生したのであります。


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「熱原の法難」とは、日興上人とその御門下の日秀、日弁の布教に
依って駿河の国富士郡下方庄熱原に起こった法華宗徒に対する念仏
者達の謂われなき弾圧であり、事件の経過は『竜泉寺陳情』(中山
法華経寺)に


  「凡そ行智の所行は・・・・・下方の政所代に勧め去る四月、
   御神事の最中に法華経信心の行人、四郎男を刃傷せしめ去る
   八月、弥四朗坊男の頸を切らしむ

   日秀等に頸を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ」


とあり、この、弥四朗坊男の働きは即ち、「涅槃経」に言う


  「爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳(日秀等)と曰う、
   爾の時に多くの破戒の比丘 (行智等) 有り、是の説を
   作すを聞いて皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師(日秀等)
   を逼む、

   是の時の国王(弥四朗坊男)の名を有徳と曰う

   是の事を聞き已って護法の故に即便(すなわち)説法者(日秀等)
   の所に往至して是の破戒の諸の悪比丘(行智等)と極めて共に
   戦闘す。

   爾の時に説法者(日秀等)厄害を免るを得たり、
   王、爾の時に身に刀剣鉾槊の瘡を被り躰に完き処は芥子如き
   許りも無し

   爾の時に覚徳(日秀等)、尋いで王(弥四朗坊男)を讃めて言く、
   善きかな 善きかな王今真に是れ正法を護る者なり、
   当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、」(立正安国論)


であり『三大秘法稟承事』には本門戒壇建立の機根を


  「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、
   勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土似たらん最勝の地を
   尋ねて戒壇を建立する可き者か、 時を待つ可きのみ」


とあり、まさに弥四朗国重の行為は

       「戒壇を建立する可き」

衆生の機根と大聖人は観られたのであります。



そして国重の四十九日の法会の日である弘安二年十月十二日に

        「本因妙大本尊」様を

開眼あそばされ同時に弥四朗国重並びに熱原の法華の行人をして

        「本門戒壇の願主」となし


供養曼荼羅を認められたのであります。



本門戒壇の願主弥四朗国重の俗称は小野寺弥四朗で、現在の大石寺
が云うような現存しなかった架空の人物ではないのであります。



現大石寺の僧侶達がなにかというと「相伝にあらずんば知り難し」
の言はまさにその通りであります。
しかし、現大石寺に宗祖日蓮大聖人以来の正しい相伝が存在してい
るという事ではないのであります。 


現大石寺は江戸時代初期の後半に京都要法寺の僧、日精師を敬台院
(徳島藩初代藩主蜂須賀至鎮正室 徳川家康養女)が招いて新造し
た寺であることは「続家中抄」に


    「諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、
     頗る中興の祖と謂うべきものか。」



と示されている如くであり全てが日精師に始まりそ、敬台院の
手紙(富士宗学要集第八巻収)には



    「此の御しゆゐんの事大石寺に下され候御しゆゐんにては
     候はまじ、勝五郎御そせう申しあげ候て勝五郎ちやうだい
     申し候御しゆゐんの事にて候」



とあり、また別紙には



    「大石寺後住の所法詔寺より永代継ぎ申し候すぢめに相定
     められ候書付、此の度右両三人持参致し慥に請取申し候」
     (以下略)

      (寛永一五年)六月二十四日 日詔(敬台院) 
            大石寺寺家檀那中


とあります。


この手紙の内容は大石寺側より大石寺の住職の任命権は蜂須賀家に
存在する旨を申し入れたものでありこれが現在の大石寺で云う血脈
の実体なのです。







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