第四章
日蓮大聖人の御予言

  日目聖人の奏聞



文永九年(1272)二月の後嵯峨法皇崩御に淵源を発した持明院閏統
皇統と大覚寺正統皇統の抗争は日蓮大聖人が文永十一年


         『法華取要抄』を顕して、


    「二の日並び出るは一国に二の
    国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは
    臣・王を犯す相なり、日と日と競い出るは四天下一同の諍
    論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり」


と述べられたとおり発展しましたが、持妙院統の伏見法皇が崩御
され、両統の和談が成立し、大覚寺統の尊治親王が即位されました。


即位三年を経た元亨元年(1321)十二月九日、大覚寺統の後宇多上皇
は鳥羽法皇以来、二百有余年続いてきた院政を廃止し、政治の大権を
後醍醐天皇(尊治)に移されました。



ここに天皇の親政が復活しました。


この年の夏は大地を焼き尽くす様な日照りに襲われて、田畑は枯れ
作物は実りを失い民衆は窮状を極めました。


その様子を太平記には、


「元亨元年の夏、大旱、地を枯らして田畑の外百里の間、空しく赤土
のみ有りて青苗無し、餓ふ野に満ちて飢人地に倒る」


と記しています。


こうした状況を日目聖人は日蓮大聖人の予言、


「国に流布する所の法の正邪を直さざれば国中に台風・旱魃・大雨
の三災起こりて万民を逃脱せしめ王臣定めて三悪に堕せん」
 (守護国家論)


に照らし、上奏の時到来と判断されました。


時に符合して、後醍醐天皇は倒幕の綸旨を触れられ、その綸旨は
日目聖人の生家新田小野寺氏のもとにも届きました。



「日蓮大聖人が著わされた『立正安国論』を日目聖人は精閲して
上表の文を




      「日蓮大聖人の弟子駿河国富士山の住 日目
       誠惶誠恐庭中に言上す殊に天恩を蒙り、、、





        続きは「正統天皇と日蓮」P71を参照
         http://syohnan.jp/nitiren.shtml



         、、、、、、、、、、、、、、、、、」



と著わされました。


此の奏状を現在の富士門流では、伝え誤って嘉暦ニ年(1327)八月
の日興師の筆になると言っています。


日目聖人のお手紙(全書241)に、



   「此の二十二日奏事かき候 たへて申候也 返々此便ハ
    下著の次日たち候間 夜中二書候程二略了  

                    恐々謹言

           十二月二十二日寅時  日目(花押) 」



とあり、日目聖人に日興師が元亨四年(1324)十二月書写して授与
された御曼荼羅に 


       「最前上奏の仁郷阿闍梨日目」  


と添書きがあり日目聖人の上奏の年次を正しく知る事ができます。


日目聖人は朝廷への上奏を終え、その返事を一日千秋の思いで待た
れ九月十九日の早朝を迎えました。


その日、日目聖人宿舎に程近い錦小路高倉の「多治見四朗次郎の館」
と三条堀川の「土岐十郎の館」を六波羅勢が突然襲い多くの人々が
討たれました。


その原因は後醍醐天皇が尹大納言師賢、四条中納言隆資、日野中納
言資朝、平宰相成輔、蔵人右小弁俊基、洞院左衛門督実世等と謀り
倒幕を企て二十三日の北野神社祭礼の刻を挙兵の時と定め諸国の武
士に綸旨を下し兵を募りました。


それが六波羅の知るところとなりその先制攻撃を受けたのです。
この倒幕の参加者の中に多くの日蓮法華の信徒がおりました。


日静師が上総の藻原寺に宛てた御手紙に


「二品親王遠流定披露候か、御供奉召籠められ候処 日記先度進ぜ
 しめ候間御覧に備え候めらん此人々今月十三日六条河原にいおい
 て斬られ候言語道断の事見物せしむ 
 凡て哀者何れも大方の事に候 中に南部彦次郎殿最初ニ斬られ
 候こそ、、、」


とあります。


この「南部彦次郎」は身延の地頭、波木井六郎実長入道日円の子息
です。


また日目聖人の御一族の大夫阿闍梨日尊に帰依し嘉元三年(1305)
陸奥の国、信夫郡渡邑に法華堂(佛現寺)を建立した伊達三位房
遊雅等も捕らえられ討たれたのです。


日興師は富士の地で風の便りに事件のあらましを伝え聞き在洛中の
日目聖人の身を案じて日目聖人の甥、民部房日盛にお手紙(全書13
7)を以て



「京都談中災難事 もたいなくおほえ候 さては坊主御労之由承候
 ハ僧都御坊事にて候歟  如何様の子細候哉
 又此訴訟人等干 今不 行返 之間今一度為 言上罷上候(以下略)




                  恐々謹言 

                 九月二十七日    白蓮


                 謹上  民部公御坊   」




と認め都の状況を問われたのであります。


「京都談中」とは上奏を含む京洛の布教をさしており「坊主御労
 之由」とは日目聖人の事です。


この元亨の日目聖人の上奏は後醍醐天皇に達しましたが、天皇は
日蓮大聖人の『立正安国論』の根本義を理解された訳ではなく、醍
醐寺の僧正文観や法勝寺の僧円観、浄土寺の忠円等にも幕府調伏の
祈祷を行わせました。


法華本門の教義に立てば、文観等の幕府調伏の祈祷は国の乱れの基
であり、結果は「承久の乱」の轍を踏む事になったのです。


この寅刻に日目聖人が認められた上表が禁中に奏聞された事を祈念
し行われているのが現在の「丑寅勤行」なのです。


その意図は日蓮大聖人の佛法が全世界に広宣流布する事を願っての
ことです。


後醍醐天皇は日目聖人の上表を天台法華寺門派の総本山園城寺に讎
校を命じられました。


その結果、「三時弘経の勘文殆ど以て符合する」


との返答がもたらされ、後醍醐天皇の叡慮を蔵人頭兼左大弁藤原資房
が日目聖人のもとに報せてきました。
御報に接した日目聖人は甥の民部日盛に宛て十月二十七日次の様な御
手紙(全書224)を送りました。


「前略 日目ハのほり候を まちてハしゆいてもせてハしわたらせ
 給つる このたひのほり候ハん□□それの御いとまも入る□申へ
 く候」


とあります。


また日目聖人より富士大石ヶ原大坊の留守居を命じられた日道上人
が南条阿闍梨に宛てた書状(全書291)には、、、、








           続きは「正統天皇と日蓮」P76を参照
            http://syohnan.jp/nitiren.shtml







、、、、、とあり、



「坊主年より」とは日目聖人の齢が既に六十八歳に達していた事に
因るものです。


「三月中さわぎ」とは奈良の興福寺の僧徒が闘争し金堂以下が消失
した事件のことです。


「仏法事御沙汰」とは後醍醐天皇から宣旨(下し文)を賜るという
意味で、その時期が「明春」という事です。


日目聖人の奏聞がかなえられたのは嘉暦三年(1328)の春でした。
日目聖人は僧都に叙せられ禁庭に参内し奏聞を果たされました。
日目聖人が「僧都」に叙せられた事は日興師のお手紙に日目聖人を
指して「僧都御坊」と記されていて明らかです。


日目聖人が僧都に叙せられのは嘗って、伝教大師最澄が天台法華の
弘経の公許を願われ、桓武天皇に上表に及んだ時、天皇はその上表
を「可」として最澄に僧都の位を授けた事に因んだものです。


尚、僧綱の制度は天武天皇の御世に僧正・僧都・律師の位階が設け
られ、これ以降、我国の仏教は国家の統制に組み入れられました。


僧都とは、官位「三位」に相当し六位以下は地下の称して五位の位
を得て初めて殿上人として禁中への出仕が可能となり、「三位」の
位を得て雲客月卿と称され始めて直接天皇への奏聞が許されたので
す。


日目聖人は入洛して富士行幸の天皇の意向を仰せ賜りました。
日目聖人の手紙(全書221)には、、、







          続きは「正統天皇と日蓮」P77を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml







、、、とあります。



「助房」とは権大納言正二位藤原経長の四男で、後醍醐天皇に仕え
内大臣従一位に叙せられた兄吉田定房の猶子となって、参議正三位
に叙せられ屋号を清閑寺と称した「資房」その人です。


即ち「秋はてん定めて」とは、秋には天皇の勅旨は必ず富士へ「可
上候」の意です。


資房の報に接した日目聖人はその悦びを「をさと」の小野寺氏に次
の如く報らせています、、、、








          続きは「正統天皇と日蓮」P78を参照
           http://syohnan.jp/nitiren.shtml








、、、、とあります。




「てんちやうふしへのほり候へく候」とは即ち、


    
            「天朝富士へ上候べく候」で、


それは勅旨の富士法華寺大坊への登山を意味し、三郎入道とは奥州
登米地方を支配していた日目聖人の舎兄新田小野寺三郎頼道の事で
す。


勅旨がもたらした綸旨とは正慶ニ年(1333)二月十三日の日善師、
日仙師、日目聖人連署の「日興上人御遺誡置文」に


          『日蓮聖人御影竝御下文』


と示されているところの「御下文」で、この「御下文」とは


           『園城寺申状』


に対する返答書、即ち『綸旨』という事です。


ここで言う『園城寺申状』とは日目聖人が元亨三年(1323)十二月
二十二日の上表を指しているのです。


即ち、日目聖人の上表を後醍醐天皇は天台法華寺門派の総本山園城
寺の長吏の讎校を命じられ、日目聖人の上表の内容は悉く佛の言に
符合しているとの奉答があり、その結果下された綸旨ですのでこれ
に因んでこの日目聖人の元亨三年十二月二十二日の上表を


          『園城寺申状』と称するのです。


この御下文は日蓮大聖人が、


「戒壇とは王法佛法に冥じ佛法王法に合して王臣一同に本門の三秘
 密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に
 移さん時勅撰並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝
 の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か 時を待つべきのみ事の戒法
 と申すは是也」


と仰せられた「本門戒壇」即ち「富士山本門寺」の成立に重要な意
味を持つ事は当然です。
それ故に日興師は入滅に当たり、





「上野六人老僧之方巡可奉守護 但本門寺建立之時者可奉納本堂」





と御遺告を残されました。



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