本門正宗と日蓮正宗の違い


■ 日蓮正宗四十八世法主・日量師は「続家中抄」を著し、その序
  に「我が先師日精尊者、当門歴史三巻を編輯(へんしゅう)し
  『家中抄』と号す、上巻は開山師(日興)一代の行業、中巻は
  目聖(日目)已下本六.新六の事跡、下巻は其余(きよ)の賢
  哲及び正嫡にしいぇ第五世より第十七代に至るの伝記なり、


  実に末世の亀鏡門家の至宝なり、


  是より来た数世の伝、未だ曽(かっ)て記する者有らざるなり、
  恐くは先聖の行功を放失せんか、拙愚悲歎(せつぐひたん)の
  余り闇昧不了を顧みず聊か(いささか)管見寡聞(かんけんか
  ぶん)の一途を述べ以って後賢の補闕(ほけつ)を俟つと爾か
  云ふ。


       天保丙申五月日        四十八世某序

  とあり、次いで『日精伝』が示されており『日精伝』には


× 釈日精字は了玄、未だ生国姓氏を詳らかにせず、慶長五庚子年
× の産れなり。

× 始め洛陽、要法寺日瑶の弟子たり、後、富士に登り就師に従て
× 当家を習学し上総国宮谷檀林に遊学す、又同州沼田の学室に移
× り玄義集解等を講す、

× 師、天性聡敏にして学を好み頗(すこぶ)る大度量有り、松平
× 阿波の守至鎮公の室、敬台院妙法日詔大姉深く当家の法義を信
× 仰し江戸浅草鳥越に大伽藍を創建す、

× 法謚(ほうし)を以って号を立て敬台山法謚寺と曰ふ 師を請
× て寺主とならしむるなり。
    


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× 寛永九年壬申年十一月就師江戸法謚寺に下り金口嫡々の大事を
× 以って師に完付す、盈師、病に因りて湯治の為に会津実成寺に
× 退隠し終に彼地に於て遷化したまう、之に依て師、同じく十四
× 丁寅年の春、本山に移転し正嫡十八嗣法となる、

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× 諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、
× 頗る中興の祖と謂ふべき者か。

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× 師、在職数年の後、仔細有り敬台院日詔尊尼と隙を生じて本山
× を退き江戸に下り下谷に一宇を建立し霊鷲山常在寺と号す、茲
× に於いて大いに宗風を振う、本庄牛島常泉寺日優、屡(しばしば)
× 法義を論じ遂に屈服して当門に帰す、

× 同時、下ノ総州仲田真光寺末寺と為るなり、加州屋敷藩中の者、
× 師の説法を聞き法を受くる者尤も多し。

× 師、在府の砌り京都本国寺と越後本成寺と本末の論争久年止ま
× らず、時に本国寺の訴訟の文に曰く、本末の支証富士大石寺に
× 有り云云、仍て師を公庁に召す、
× 寺社奉行小笠原山城守、加賀爪甲斐守、御老中阿部豊後守等なり。

× 師曰く、其の証、本山宝庫第三の筥の中に有り、即使を富士に
× 馳せ興師所制の門徒存知抄を持ち来らしめ以って公覧に備ふ、
× 其の書の中に曰く、、、


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摩訶一日印と云ふ者有り予が法義を盗み取
× て越後国に於いて盛に之を弘通せしむ云云、爰に於いて両寺元
× 来一致勝劣別派にて本末に非る事治定し裁許忽ちに落居し畢ぬ、

× 本国寺筋なきの訴訟を起こし御式目を違反するの罪に由り現在
× 日運僧正は退院蟄居を仰せ付けらる。

× 師、当山入院の翌年寛永十五戌寅の春、公儀年賀として下関し
× 給ふ、日詔尊尼の御推挙に由りて登城の刻に下乗迄乗輿を免許
× せらるるなり。

× 師、述作の書、高租御年譜上下二巻、富士門徒家中抄上中下三
× 巻、内外御書真偽決十巻、同末抄数巻なり、
× 天和三癸亥の夏、常在寺を長然日永師に付属し同年冬十一月五
× 日病無して安詳にして自寂す業寿八十四才、遺命に任せ荼毘し
× て骨を富士に納む。、、、、

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■ とありますが日量師述べる日精師の相承の譜は日就師より受け
  たもので無い事は明らかであります。

  即ち、それを証明する文献は『富士宗学要集題八巻』(第二僧
  俗護状置文及び官憲文書等)に堀日亨師が「日盈上人の記文、
  祖滅三百五十二年、日盈師の理境坊日義が御相承預りの功を以
  って上人号を贈る等の記文、及び此に附帯する精師の記文等、
  総本山に在り」

  として紹介する次の文書であります。



× 師、述作の書、高租御年譜上下二巻、富士門徒家中抄上中下三
× 巻、内外御書真偽決十巻、同末抄数巻なり、
× 天和三癸亥の夏、常在寺を長然日永師に付属し同年冬十一月五
× 日病無して安詳にして自寂す業寿八十四才、遺命に任せ荼毘し
× て骨を富士に納む。、、、、

     ===============================================


■ とありますが日量師述べる日精師の相承の譜は日就師より受け
  たもので無い事は明らかであります。

  即ち、それを証明する文献は『富士宗学要集題八巻』(第二僧
  俗護状置文及び官憲文書等)に堀日亨師が「日盈上人の記文、
  祖滅三百五十二年、日盈師の理境坊日義が御相承預りの功を以
  って上人号を贈る等の記文、及び此に附帯する精師の記文等、
  総本山に在り」

  として紹介する次の文書であります。

× 「此の御消息は大石寺一院理境坊式部阿闍梨日義、寛永十癸酉年
× 九月一九日亥の刻病に臥して之を予に授けられ畢んぬ。

×                       日盈(在判)


×     寺僧檀那孰れも見畢んぬ


× 同月廿一日巳の刻遷化、当三代の間劫行不退、殊に血脈相承等
× を預かって相伝せらるるの条、他人に異るに依って上人を贈り
× 畢んぬ。
  

× 理境坊日義贈上人、日盈付属の御消息一幅御奉納の間筆を染むる
× 者なり。


×     (寛永十三年)
×      子の十月一四日


×                       日精(在判)

× 日盈御消息一幅を以って日精預かり候なり、仍て件の如し



■ 、、と日盈・日精両師の日蓮正宗大石寺の血脈相承次第の資料
  を示されております。

  しかるに、『家中抄』の日就師その人が理境坊日義より相承を
  受けた旨


      『 元和年中、昌公(日昌)終焉の後、同四月廿三入院し
      理境坊日義に随い相承を継ぐ 』


  と日精師は記しており日昌師が「理境坊日義」なる人物に法を
  付属した事実は全く無いにもかかわらず日就師ばかりでなく日盈、
日精の両師も数在る一塔中の住職の「理境坊日義」なる人物から
  大石寺の血脈相承を受け大石寺の法主に就任したと言っている
  のであります。


■ 即ち堀日亨師が示すが如く日精師は日就師に付いて修行した事実
  は全くないのであり日量師が示した日精師伝はその行状に於いて
  事実関係が前後しているのであります。
  


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■ 宮谷檀林の件にしても日盈師が歴任した事は資料に確かでありま
  すが日精師が歴任した事実は証明できません。

  また、日量師は日精師を「正嫡十八世嗣法となる」と評していま
  すが日蓮正宗大石寺の「歴代血脈付法系譜」(昭和三十九年度
  富士学林発行本)では「十八世」とありますが同五十六年度版
  「富士年表」では日盈師と歴代が入替わり日精師は十七世に位上
  されております。


■ 日量師の評では日精師は 

  『天性聡敏にして学を好み頗(スコブ)る大度量有り』 


  と仰せられている訳ですが堀日亨師の批評は反対に


  『精師の家中抄は、さらにこれに加上して少しも当時の実情を
  顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無知で無精で単に自己の
  経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる。』


  であり日量師の『日精伝』に日蓮正宗大石寺の諸堂を建立した
  人物が日精師であることを

    『諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、
     頗る中興の祖と謂うべきものか。』

  
  とあるが如く日蓮正宗大石寺の全ての諸堂が日精師以降のもの
  である事は歴史の事実が証明しているのであります。


■ そして漸(ようや)く三百五十年の年月を経たばかりであり
  如何にしても七百五十年の歴史的事実は存在しないのであります。


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  ただ、日精師以前の事跡を無理矢理、理境坊日義なる人物を通して

          『正統大石寺譜』

  に結び付けたに過ぎないが故に堀日亨師が批評するが如き


      【日蓮正宗大石寺歴代法主血脈相伝譜】


  が出来たのであります。


  但し、これらの諸件も日蓮大聖人の本門の佛法を待つ為、、に
  であり全て佛の成せる業であります。


■ 日蓮正宗大石寺で現在『御本尊』と仰いでいる「板曼荼羅」
  添書きに  


 「右現当二世為造立如件、本門戒壇願主弥四郎国重、法華講衆等敬白」


  とあります様に日蓮正宗大石寺「板曼荼羅」は本門戒壇が建立
  され本門本尊がご奉安される事を願う主、弥四郎国重を代表と
  する信徒一同という事なのであり、「弥四郎国重」とは日蓮大
  聖人からお手紙を賜った新田小野寺四郎信綱の息子で富士上方
  の政所代であった日目上人の従兄新田小野寺弥四郎国重の事で
  あります。


■ 小野寺弥四郎国重が熱原法難に日蓮大聖人の佛法を布教する日
  秀・日弁を守って生害した事は日蓮大聖人の弘安二年十月の
  『瀧泉寺申状』に


  『下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人
  ・四郎男を刃傷せしめ去る八月寺弥四郎男の頸を切らしむ(日秀
  等に頸を刎ぬる事を疑す)


  と示された「去る八月寺弥四郎男」が富士上方政所代新田小野寺
  氏の「弥四郎国重」であり、これに対して「四月御神事の最中に
  法華経信  心の行人・四郎男」と在るのが熱原三烈士の一人
  「神四郎」が事であります。


  故に日興上人筆の「曼荼羅」(北山本門寺蔵)に


  「徳治三年卯月八日、駿河国の富士の下方熱原住人神四郎、
  法華衆と号し平左衛門の為に頸を切らるる三人の内なり、

  左衛門入道法華衆の頸を切るの後、十四年を経て謀叛を謀り
  誅せられ畢ぬ、其子孫跡形無く滅亡し畢。」

  とあるのです。


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■ 此の曼荼羅が認められた三十年前の弘安二年四月八日こそ、法華経
  信心の行人達が富士に於いて大弾圧を受け殉教した時であり、
  その時、弥四郎国重は法華の信徒を守ってその年八月殉教され
  たのであります。


■ その四十九日の供養曼荼羅が現大石寺の板御本尊と称する大曼荼羅
  なのであります。

  それ故に日蓮正宗総本山大石寺第六十七世法主阿部日顕師は筆者に
  対して「御霊宝虫払大法会」の名をかりて己義の「本尊論」を以っ
  て反論しなければならなくなった訳であります。

  そしてその論の中で宗祖であられる日蓮大聖人が建治二年以前に顕
  された所の「本尊」は「未究竟」であった、、、との珍説を披露さ
  れました。


■ 日顕師のその論を平易に譬えれば日蓮大聖人は建治二年頃迄精神的
  病で支離滅裂な物(本尊と称する、、、)を書いていたが建治二年
  の頃より精神的健康の快復が見られ弘安二年十月十二日に至って病
  本復し突如に不可思議な力を得られたという論であります。

  即ち、宗教法人創価学会機関紙『聖教新聞』(昭和六十一年四月
  八日版)紙上で、、、、




    ===============================================



                    注意!


  以下に示す×××で囲まれている文章はは阿部日顕己義の支離滅裂
  な本尊論です。

  このデタラメ本尊論により創価学会との不和は決定的なものと
  なりその後の「破門」へと発展(?)してゆくのです。


×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× 今、端的にいえば、佐渡より身延に入られて、文永十一年、十二年、
× 建治二年ごろまでの御本尊は、外用の上の意義を表となし、内証の
× 当体を直ちに顕されていないのであります。                   
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× 建治三年より弘安に至り、特に弘安以降において如実に南無妙法蓮
× 華経の中央直下に日蓮の御名、御花押をお示しあそばれ、その上か
× ら御本尊の当体、当相に重大なる整足が拝される御本尊においてこ
× そ、外用を撤廃して直ちに内証の本仏の当体を示したもうのであり
× ます。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× それ以前の御本尊は、中央の七字に対し御名、御花押が左右にはな
× はだしく片寄って書かれており、これはいまだ根本妙法蓮華経を所
× 持し証得あそばした法界ただ一人の本仏御境涯を直ちに顕されず、
× 釈尊の脱益仏法の範囲に由来する仏勅使としての義を残したもうの
× であります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× 故に、これらの御本尊を未究竟(みくきょう)と申し上げるのであ
× り、その代表的な意味で、この時期における当分の化導の意義を顕
× されたのが、千葉県保田妙本字所蔵の通称万年救護、いわゆる文永
× 十一年十二月御所顕の御本尊であります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× この御本尊において、大聖人様が文応元年、『立正安国論』の呈上
× 以来」、警醒予言あそばされたところの自叛・他逼の二難のうち、
× 自界叛逆はすでにおこるも、残る一難たる他国浸逼の難がまさに十
× 四年目に至って実現し、予言が実証されたことに由来して、まず御
× 自身が上行菩薩の出現であることを顕示せられたのであります。
× 
× しかし、いまだ御化導の上の究竟本懐の時至らざるゆえに、ひとま
× ず教相上の付属の意義による上行菩薩の出現を示し、外用の上より
× 本尊の顕示をなされたのであります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× したがって、右本尊には前に述ぶるごとく、最も中心たるべき日蓮
× 御名は小さく右の傍(わき)にあり、御花押はこれも小さく左傍に
× 離れ、妙法即法界の全体を所有あそばされる当体蓮華仏たる御徳を
× 直ちに顕されておりません。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× また、これらの未究竟の時期の御本尊に通じて拝される東方善徳仏
× と十方分身諸仏がやはり示されてあることも釈尊の文上の仏法の範
× 囲網格によられたものであります。
×
× その理由は善徳仏が釈尊の分身以外の余仏であることにより文上の
× 仏身を顕したもうのであります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××


                注意!


  ×××で囲まれている部分は阿部日顕己義の支離滅裂な本尊論
  です。

  このデタラメ本尊論により創価学会との不和は決定的なものと
  なりその後の「破門」へと発展(?)してゆくのです。


      ===============================================


×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× しかるに、弘安以降の御正意の御本尊では善徳仏と十方分身仏、
× また、ごく、稀に存する胎蔵・金剛両界の大日如来等はことご
× とく、一幅の例外もなく削除されております。
×
× この正しい理由は、寿量文低本仏が無作三身如来であり、文上
× 有作色形の仏の化導領域を撤廃して、そのすべてを包摂する法
× 界遍満の内証をしめしたもうにあります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× いわゆる、日輪が出ずれば諸々の星がその光を失うごとく、文
× 底本仏の無限の光明体徳を釈迦・多宝以下本有の十界互具の相
× をもって、元初本仏の一念の相貌として示したものが内証究竟
× の御本尊の体相であります。  (中略)
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× 以上、要するに、通称万年救護本尊が、いまだ未究竟の領域に
× あることが明らかであります。
×
× しかるに、この保田妙本寺の本尊が他の本尊のごとく一定した
× 讃文でなく、特殊な讃文が拝せられるためか、この御本尊が
× 大聖人の出世の本懐かのごとき錯覚を抱いて種々の迷見を述ぶ
× る雑音がわずかながら存するようであります。
×
× その者どもは、また当然のこととして大聖人の御正意を曲解し
× 誹謗にあたる言葉を連ねるに至ります。
× したがって、いま、同本尊の讃文の正しい拝し方についても、
× このさい一言ふれておく次第であります。
×
× その讃文とは、、、
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
×『大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を教歴(きょうりゃく)す
× 爾(しか)りと雖(いえど)も月漢日三ヶ国の間未だ此の大本
× 尊有(ましま)さず、
×
× 或は知って之を弘めず、或は之を知らず、
×
× 我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す、
× 後五百歳之時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す』
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× と、首題の右下より真下へ、更に左下に至るまで長く書き記さ
× れてあります。
×
× この、御文について文章・文体を強いて曲折し、牽強付会の読
× み方をもって釈尊にあたる文を大聖人に取り違える者がありま
× すがこれは過(か)の咎(とが)であります。
×
× また、上行菩薩出現の文の表面だけを見て大聖人一期究竟の
× 御化導の内証を信ぜず教相にとらわれる古来の不相伝の者を
× 不及(ふぎゅう)の咎ありというべきであります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××


                 注意!


  ×××で囲まれている部分は阿部日顕己義の支離滅裂な本尊論
  です。

  このデタラメ本尊論により創価学会との不和は決定的なものと
  なりその後の「破門」へと発展(?)してゆくのです。


      ===============================================

×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× この御文は、前来述ぶるごとく、一往教相上の付嘱の意義を依
× りどころとし、外用の立場で上行菩薩の出現を宣言あそばす文
× であります。
×
× 故にその文意とは大覚世尊、すなわち、釈尊が入滅されて二千
× 二百二十余年を経たが三ヶ国の間にいまだこの本尊なく、ある
× いは人師の中にこれを知っていても弘めない正師もあり、また
× 知らない者もある。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× 我が慈父釈尊は、寿量品においてこの本尊が説きいだされたが
× 上行等の菩薩にのみ付してその意義に暗い滅後の衆生にはこれ
× を隠しとどめられ、特に末法の衆生のためにこれを残されたの
× であります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× しかるに、末法後五歳の時、上行菩薩が現実にこの世に出現し
× て始めて之を弘宣するのである、との意であります。
×
× この文におけるかぎりは、このように読むのが正しいと信じます。
× それは大聖人の内証の本地を御本尊に顕したもう時がいまだ至
× らざるゆえに、釈尊の弟子上行菩薩たる外用の立場を取りたも
× うゆえであります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× したがってこの文は素直に「我が慈父」と読むのが当然であり
× この慈父とは、この文においては釈尊のこと、すなわち法華本門
× 文上の釈尊を志したもうことが当然であります。
×
× それはこの御本尊がいまだ未究竟の本尊だからであります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
× しかるに最近なにやら内証も外用も分らぬ者が物知り顔に、
× 「我が慈父」と読むのは謬(あやま)りで「我れ慈父」と読む
× べきであり、それはこの慈父とは大聖人が御自身のことを示さ
× れたものだと、まことに珍無類な解釈を行っているとか聞きま
× した。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××
×
×「我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す」の文か
× らしても、この慈父とは、いったん隠しとどめて末代のために
× これを残されたのであるから、直接、末代に出現される方では
× ありえません。
×
× したがって、大聖人が御自身を指されたものでないことはだれ
× が見ても明らかであります。
×
× これは、この文におけるかぎり釈尊のことを示されているので
× あります。
×
×××××××××××××××××××××××××××××××××


○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ と説法されておりますが果たして日蓮正宗管長阿部日顕師の述
○ べる所は正論なのでありましょうか。

○ 日蓮大聖人の論旨に従って日顕師の論を検討してみましょう。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○



○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 日顕師はその説法の中で

○      「佐渡より身延に入られて、文永十一年・十二年
○       建治二年ごろまでの御本尊は外用の意義を表と
○       なし、内証の当体を直ちに顕されていない」

○ と述べられておりますが此の説法は根本からその成立をみない
○ 論であります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ すなわち「本尊」とは日蓮正宗の信徒団体であった創価学会が
○ 『折伏教典』のなかの本尊論で


○     「本尊とは『為根本尊敬之』するものをいうのであり
○      尊敬すべき根本を『本尊』という」


○ との説明をしています。

○ まさにその通りであって一宗に本尊が沢山存在するとの日顕師
○ の論は支離滅裂であります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 日蓮正宗の管長の職にあられる阿部日顕師は日蓮正宗では複数
○ の本尊を認める旨の説法を度々行われている事は『大白蓮華』
○ (第424号)掲載の同師の「勧心本尊抄」の説法でも


○  「しからば、大聖人様の御真筆本尊は正確にはいったい今、
○   何幅あるかと言いますと日本中に大体百三十数幅、おおめ
○   に考えても百五十幅未満であります」

○ と述べられているのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 「正確」とはけっして「大体」であってはいけないし「おおめ
○ に考え」る必要もありません。

○ 「正確」とは確定した事実のみが「正確」なのであって確定さ
○ されていない問題は「正確」とは言えないのであります。

○ このような日顕師の論では日蓮大聖人の仏法は成立しなくなっ
○ てしまいます。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ なぜならば日蓮大聖人の仏法は「本因妙大本尊」を「本門戒壇
○ の大本尊」となして、それを「根本尊崇」として諭された教え
○ だからであります。

○ 日顕師の


○    「建治二年ごろまでの御本尊は外用の意義を表と
○     なし、内証の当体を直ちに顕されていない」


○ との論は日蓮大聖人を 「衣を着たマネキン人形」 と言うに
○ 等しいのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 何故ならば「内証」とは「体内の用」であり「外用」とは「体
○ 外の用」即ちその行動ということであり日蓮大聖人の「事業」
○ のということだからであります。

○ 日蓮大聖人の「色心」に即して言えば、大聖人が文永九年二月
○ に執筆を終えられた『開目抄』に『我れ日の本の柱とならむ、
○ 我れ日の本の眼目とならむ、我れ日の本の大船とならむ等と、
○ ちかいし願やぶるべからず』

○ と仰せられており、この大聖人自らの決意こそ日蓮大聖人の
○ 「内証」であり同抄に「日蓮は日の本の国の諸人にしたし・
○ 父母なり」と述べられたところの「我れ慈父」の行動が御本佛
○ 日蓮大聖人の「外用」なのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 此の「日の本の国」とは日本国のことではなく「一閻浮提」
○ 即ち全世界という意味であり日蓮大聖人は全世界の諸人の主・
○ 師・父母と文永九年二月に自解佛乗として宣言されたわけであ
○ ります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 日蓮大聖人のこの「日蓮は日の本の国の諸人にしたし・父母な
○ り」の宣言は『妙法蓮華教如来寿量品』に御本佛の本化地涌を
○ 始めは「譬如良医」と示されその人格と働きを「智慧聡達明練
○ 方薬善治衆病 其人多諸子息 若十二十乃至百数 以有事縁遠
○ 至餘国」とあり、「遠至餘国」の後に残された諸子(衆生)は
○ 「於後飲他毒薬 薬発悶乱宛轉于地」とあります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○ 
○ そして次に「是時其父還来帰家」と示されているのであります。
○ 此の「是時其父」を日蓮大聖人は「我れ」と捉えられた訳であ
○ ります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○ 
○ 此の一事を日蓮大聖人の「自解佛乗」と言うのであり、日顕師
○ の言うが如く「建治二年ごろまで内証の当体を顕されていない」
○ という論では

○     建治二年以前に大聖人が著された書物の内
○     「唱法華題目抄・立正安国論・開目抄・
○     如来滅後五五百歳始感心本尊抄・法華取要抄
○     撰時抄・報恩抄」等に建治二年後に大聖人が
○     著された「四信五品抄」・「下山御消息」
○     「本尊問答抄」の三部を加えて何故日蓮正宗
○     の「十大部御書」としょうするのでしょうか?

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 四信五品抄・下山御消息・本尊問答抄の三部は本尊問答抄以降
○ の御述作であられますから日蓮正宗の「十大部御書」に加えて
○ も問題はないと考えられますが他の「七大部」と称するものに
○ つては日顕師の説によれば日蓮大聖人が


○           「未究竟」時代

○ の作品であり日顕師の言い分では全く日蓮正宗の教義の根本に
○ はならないと思われるのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ なお、日顕師が言う「未究竟」という考え方は佛法には存在し
○ ない考え方であり、日蓮大聖人が『開目抄』に言う儒教の

○ 「其の所詮は三玄をいでず。  三玄とは一には有の玄、周公
○ 等此れを立つ。

○ 二には無の玄、老子等。
○ 三には亦有亦無等、壮子が玄これなり。

○ 玄とは黒なり、父母の未だ生ぜざる已然をたずぬれば、或は元
○ の気よりして生じ、或は貴賤、苦楽、是非、得失等は皆自然等
○ 云云」の論でありましょう。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ また、阿部日顕師の平成三年八月二十九日、大石寺大講堂に於
○ ける「全国教師講習会の砌」の講義という文が日蓮正宗機関紙
○ 「大日蓮」(同年十月号)に発表されております。


○ その題名には「万年救護本尊に関する妄説と宗祖大聖人究竟の
○ 本尊について」とあり、内容は昭和六十一年四月八日『聖教新聞』
○ (五版一面)に発表されたものと大方同じでありますが、当時
○ の『聖教新聞』紙上では「内証も外用も分らぬ者が」とされた
○ 所を今回は冒頭より日顕師は面識のあった私に「小野寺日了な
○ る者」との云い出しで一山の法主とも思えぬ様な講義をなさっ
○ ておられます。

○ その二、三の例を引けば、私の主張を否定する為に日顕師は自
○ らの宗門が破門にした妙信講の私に対する悪意と為に成す論を
○ 以って「何年か前に宗門外の妙信講で採り上げて破折したこと
○ がありまして、、、」

○ と虚言を弄しておられます。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 当宗と妙信講の事件の内容は妙信講側より本尊論争を当宗に申
○ し入れ、妙信講側で日蓮正宗としての立場でと云う事であった
○ ので大石寺側でもそれを認めるかどうか予てより面識のあった
○ 日蓮正宗の早瀬日慈重役に確認した所、種々経過が在ったが最
○ 終的に妙信講の日蓮正宗としての法論を認めないとの返答で申
○ し込み側の条件が整わず法論が成立しなかった事件であります。

○ それが阿部日顕師の論では「破折した」ことになってしまうの
○ であります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 破折されたのであれば現在、本門正宗は存在しないし、また、
○ この様な言い分であれば日顕師自身が妙信講に破折されてしま
○ ったと云うより外にないのであります。

○ なぜならば日蓮正宗妙信講の主張も狂っておりますが妙信講は
○ 日蓮正宗に対して


○   「正本堂を正当化するための学会・宗門のさまざまな
○   詭弁を見るに池田大作のそれは幼稚、細井管長は粗雑
○   そして阿部教学部長は最も巧妙である。

○   しかし、いかに巧妙であろうとも、鬼弁婆羅門のとば
○   りが馬鳴菩薩にせめられて破れたごとく、誑惑がいつ
○   までも続くはずはない。

○   以下、これらの詭弁の大綱を挙げ、その誑惑の根をこ
○   こに切断する」


○ と教学部長時代の日顕師を断罪しているのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ また、日顕師の言い分である

○   「小野寺日了は自分で勝手に作っておきながら」
○        

○ とは、これこそ世に云う、自分がその場に立ち会っていなけれ
○ ば知る事のできない所であり、まさに、「見たような嘘」とは
○ この事を指すものと云えましょう。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 日顕師の論の立て方は自己に都合のよい文を抜粋しているだけ
○ であります。
○ そしてその言わんとしている前後関係を無視しておられる。
○ 


○ それはかって身延側が富士門に対して


○   「板本尊と岡宮の日法御作の大聖人の御影とを盗取て
○   出山玉ふ」


○ と主張した事と同じではないかと思うのであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ なぜならば、この身延の主張では正眞の板本尊と御影様は理由
○ は別として富士に移された事を身延側は認めているのでありま
○ す。

○ しかるに現大石寺五九世の堀日亨師は『日興上人詳伝』のなか
○ で日興上人の身延離山の時『御荷物の中に「生御影・御骨」は
○ かならず御捧持であるべきであるが

○   板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。』


○ と正直に述べております。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 即ち、日興師を白蓮阿闍梨 本門弘通の大導師と称し、日目上
○ 人を一閻浮提の御座主と称する原因は、ここに存在するのであ
○ ります。

○ 『一閻浮提の御座主』とは一閻浮提第一の大本尊を直授された
○ 人、、との意味であり、故に日目上人の房号、「蓮蔵坊」は
○ 「蓮華蔵」に由来し「蓮華」とは御本佛日蓮大聖人の魂魄であ
○ る「本因妙大本尊」の別称であり、それを蔵(しま)い伝える
○ と言う事が「蓮蔵坊」と云う事なのであります。


○ 故に現大石寺でも本門弘宣流布の時は日目上人が再誕して行う
○ 旨を伝えていたはずであります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 阿部日顕師はこれら富士門の根本教義を否定して何を主張しよ
○ うと考えているのでしょうか。

○ 本題のもとに日顕師が論じている内容は全て見当違いの論で馬
○ 鹿馬鹿しくて批評する気にもならないというのが私の本音であ
○ りますが一応反論しておかないと日顕師は私が日顕師の云い分
○ をすべて認めたと言い出しかねないので、敢て反論しておく次
○ 第であります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 当山、本門正宗本門寺の「本因妙大本尊」を日顕師自らの「勝
○ 手な推断」で偽物と論ずるよりも自らの手もとの「願主弥四朗
○ 国重大曼荼羅」に対する歴史的問題点を解明されるべきではな
○ いかと思うのであります。

○ 私がかく云う問題点とは過去の日蓮正宗早瀬日慈重役より私に
○ 直接質問があり、それに対して私は私なりに解等しておきまし
○ た。 それらの諸問題についてであります。

○ また、私が貴殿と大石寺の応接室で面談した折の会話のすべて
○ は、当時、創価学会の特殊任務を帯びて私に同行した人物に依
○ って録音され保存されております。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ 当然、それには貴殿が私の質問に対して答えた勅宣・御教書を
○ 以って建てられた本門寺の存在を認めた発言も録音されている
○ し、その他、種々の率直な貴殿の意見も収録されております。

○ まして『観心本尊抄』の「今指自界叛逆・西海侵逼二難也」


○    の文を  「今の自界叛逆」   と読み


○その解説を

○    ×「一の自界叛逆の難はすでに顕れ、二の・西海侵逼
○    ×の難はいまだ顕れざるその中間の時でありますから
○    ×、この「今」という字義は仏智の明鑑(めいかん)
○    ×により、文永九年より現在そして未来二回にわたっ
○    ×て他国侵逼の難が起こった弘安四年までの時期全体
○    ×を含めて現在の形で仰せられたのであります。

○    ×したがって、この本尊抄述作の時に西海侵逼の難は
○    ×まだ起こっていないから「今の自界叛逆・西海侵逼
○    ×の二難を指すなり」と現在形に読むのは誤りなどと
○    ×いう説は、大聖人の佛智冥鑑の三世にわたりたもう
○    ×を信じない者の謗言であります。」

○        (昭和六十一年四月八日の聖教新聞)



○ の論ではまさに六師外道の天界論であります。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

○ この様な論者を「破仏法者」と云い、また脳乱者とも頭破作七
○ 分とも云うのであります。

○ 日顕師の「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり」の読み
○ が正しいとするならば日顕師は自ら戒壇の大本尊と主張する弘
○ 安二年(一二七九)十月十二日の弥四朗国重大曼荼羅は日蓮大
○ 聖人の云う「一閻浮提第一の本尊」ではないと主張している事
○ になるのであります。


○ 何故ならばこの文に次いで『観心本尊抄』には


○   「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊を脇士となす
○   一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」


○ とあり『観心本尊抄』は文永十年(1273)四月二十五日に
○ 著されたものでありますからこの時点で既に「一閻浮提第一の
○ 本尊」が成立しているという事になるのであります。


○ 私の本意としては貴殿と低いレベルでの本尊論を行ったところ
○ で日蓮大聖人の佛教の為には意味が無いと思うのであり、もし
○ 貴殿に真心があるならば、もっと真剣に真面目な態度で問題の
○ 本質を論じようではないかと提言いたします。


○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○




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