吾先祖一閻浮提座主 日目上人伝


南朝初代の後醍醐天皇は生前、専ら真言密教によって天下静謐を
謀りましたが、結局のところ失敗しました。


そこで、崩御の際に安座して左手に法華経第五の巻を握り、


「賢士・忠臣事を謀り子孫不義の行いなくば股肱の臣として天下を
 静むべし 

 玉骨は縦令南山の苔に埋るとも魂魄は当に北闕の天を望まんと思
 ふ

 若し命に背き義を軽んぜば君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣
 にあらず」


とこのように遺勅したのであります。



この言葉と『法華経』を御手にした事を勘案すると、君臣心を一つ
に合わせ法華の教えに随って一天四海を太平にせよというメッセー
ジを後醍醐天皇が残されたものと解釈できます。



そして、ここでいう法華のイメージは比叡山の天台法華というより
はむしろ


       「正法を立てて国を安ずべき」


という、日蓮大聖人の『立正安国』の思想に近く、「金輪聖王躬ら
一乗法華を宣ぶる仏たらしめたまうべき」


という日蓮大聖人が主張した「王佛冥合」の思想に相似していると
言えましょう。


では、なぜ後醍醐天皇が崩御の間際になって真言密教を捨てて法華
に、それも皇子護良親王がかって座主を務めた比叡山延暦寺の述べ
る天台法華ではなく、日蓮大聖人の述べる法華に鞍替えしたのであ
りましょうか。


おそらく後醍醐天皇は生涯を通じて信仰してきた真言密教が招いた
現実が、まさに日蓮大聖人の予言する真言亡国の状態そのものであ
ると認識されたものと考えられます。


もしそうだとすれば、後醍醐天皇は日蓮大聖人の法門をどのように
して知るに至ったのでありましょうか。


その謎を解く鍵は日蓮大聖人の弟子、日目上人の布教活動にあった
のであります。


日蓮大聖人には本弟子の六人を始め多くの弟師建がいました。
その中に交名を卿公と賜り房号を蓮蔵坊と称された日目という人が
いました。


日目上人の家系は「御堂関白」と世に称せられる摂政藤原道長の
流れを汲む小野寺氏で鎌倉御家人の内でも名門中の名門でありま
した。


そしてこの日目上人が日蓮大聖人より京都布教を特に託され後醍醐
天皇の朝廷に日蓮大聖人の『立正安国論』を奏上したのであります。


これに対して『下し文』が下されたことは正慶ニ年二月十三日の
『日興上人御遺跡事』に



『上野の六人の老僧方 巡に守護し奉る可し 但し 本門寺建立の時
は本堂に納め奉る可し

此の条 日興上人の仰せに依って支配奉る事此の如し
此の旨に背き異を成し 義を失たらん輩者 永く大謗法成る可し

仍誡之状件如し

                   正慶ニ年癸酉
                   二月二十三日』





とあって確かであります。


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この下し文が日目上人の奏聞に対して下された事は日興師が、正慶
元年十一月三日の大曼荼羅に

    「最初上奏の仁、新田阿日目」

と認められており、また『日興跡條々事』には


「右日目は十五の歳 日興に値て法華を信て以来 于七十三歳老体
 に至る 敢えて遺失之義なし 十七歳之歳 日蓮聖人の所(甲州
 身延)に詣て御在生七年之間 常に随いて仕え給う

 御遷化之後 弘安八年自り元徳二年に至る五十年之間奏聞之巧他
 に異なるに依りて此の如く書き置く所なり 仍て後の為に證状
 件如」


とあり、伝説ではそのご生涯に鎌倉幕府並びに朝廷に四十二度の
奏聞を行われたと伝えられております。


その中でも元亨四年の天奏が特に高名で日興師が、この時の日目上人
の天奏に対して元亨四年十二月二十九日の大曼荼羅に


     「最前上奏の仁、卿阿闍梨日目」


と認められ、また、その一族で日目上人の天奏を援助された奥州
新田住、小野寺孫五郎道章、並びに同じく小野寺三郎五郎行道に
元亨四年十二月五日、日興師は大曼荼羅を書写して授与されている
のであります。


この元亨の日目上人の奏状を富士門流では古来





        『園城寺申状』





と称しているのであり、この奏聞に対して後醍醐天皇より綸旨が
下され、この綸旨を富士門では





         『下し文』




と言って、本門寺勅許の根本の證文としているのであります。


これ等の大事に総てが、江戸時代の中頃、駿河国駿東郡東井出の
住人、小野寺左京の基に伝えられていた事は保田妙本寺の記録に


      「大石寺三箇の大事とは 

       一、御御影
       一、園城寺申状
       一、御下し文  なり

       いまは、東台がいとに之有り」


と、現大石寺の五十九世であった堀日亨師は「富士日興上人詳伝」
の中で紹介している通りであります。


また、大石寺の重宝の井出の地に存在すると云う伝説が堀日亨師に
よれば


「いまから二百年くらい前に、家中抄以後百年後ぐらいに出来して
 おる。

 駿東郡東井出の御穴がそれである。」


と述べられておられます。



現大石寺にとって不都合なこの伝説は種々の方法を以って辻褄合せ
が行われて説明されて来ましたがその実、伝説の通りだった訳であ
ります。


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そして、日蓮大聖人から


          『本因妙大本尊』


をお預かりし世に一閻浮提の御座主と讃えられている日目上人は、
日蓮大聖人が『立正安国論』を著し、身命を賭して国家諌暁を行わ
れた文応元年(1260)に伊豆国仁多郡畠郷に誕生されました。


現大石寺で日目上人の甥の日道上人の筆として伝える『日目上人
御伝土代』に


  「右、上人者、八十九代当今御宇 文応元年 がのえさる
   御誕生也」


とあります。


『御伝土代』とは、伝記の草稿、即ち下書きと言う意味であります。


『日目上人御伝土代』には、大石寺六世卿阿闍梨日時師の筆で


    「在世一代乃至于時応永十年癸未九月廿二日」


の書付がある旨を碩学堀日亨師は述べてをり奥付の日時師の筆跡と
『日目上人御伝土代』本文の筆跡とが異なっていることから堀日亨
師は『日目上人御伝土代』と同筆跡の『日興上人御伝草案』の文中



「日興上人御遺告 元徳四年正月十二日 日道記之」


の文を発見し之に因んで


「日蓮大聖人・日興上人・日目上人」の『三師伝』の作者を弁阿闍
梨日道上人と推定し発表されたのであります。


これに依って大石寺門流の内外を問わずこれを日道上人の著書とし
て単称日蓮宗を含む宗門最古の『伝記』として取り扱うようになっ
てしまいました。


文献の内容を正確に示せば


「日興上人御遺告 元徳四年正月十二日 日道記之」


に次いで五箇条の御遺告が記されております。


このように年号が本文の前に示されると云う事は日道上人が筆記さ
れた「日興上人御遺告」を『御伝草案』の筆者が転写し収録したと
云う事でありこれら『三師伝』が日道上人の著作物ではない事を反
対に証明する所であります。


仮に『三師御伝土代』を日道上人の著作とするならば、その記載の
内容に多くの問題が生じるのであります。


一例を示せば、日朗師の富士帰伏を『御伝土代』には「去正中のこ
ろ富士山入御」と記しておりますが日朗師の富士帰伏は正安年中で
あって『御伝土代』に云う正中(1324−1326)の頃では日朗師の入
滅後と云う事になってしまいまず。


そしてこの時期こそ日道上人が富士に在って最も活躍されていた時
であります。


また熱原法難についても『御伝草案』には「廿四人」と記し当時
日道上人が当然所持したと考えられる日興上人自筆の


      『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』


には「神四郎兄以下廿人」とあってその人数に相違が生じ、また
大聖人の『御伝土代』には肝心の大本尊造立の記事も未完であり
ます。


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その他の文章にも多くの出入りがあり日興・日目の両上人に直接
学びその法水を正当に受け継いだ日道上人の御著書とは信じ難い
のであります。


『三師御伝土代』の内容を詳細に調査し内容に照らし、その成立を
推測しその筆者を推定すれば日時師の付弟日影師を挙げることが出
来ます。


日影師の俗譜は嘉暦三年(1328)七月、日興上人より曼荼羅を賜っ
た小野寺虎王麿(のちの遠江守道親)の孫に当り舎兄は遠江守重道
と称して小野寺家中興の人物で、その舎弟の日影師が南北両朝の抗
争に依って荒廃した先祖の寺、大石寺の復興を願い『三師御伝土代』
を著されたと考えられます。


故に日目上人の俗称を正しく示される立場にあったと云えましょう。


日目上人の俗称は『御伝土代』に


  「俗姓藤氏御堂関白道長廟音 行下野国小野寺十郎道房孫
   奥州新田太郎重房嫡子五郎重綱五男なり 母方は南條兵衛入
   道行増孫子なり」


とあって「藤原朝臣」の出自で、太祖鎌足より道房に至る家系を
『藤原朝臣姓小野寺系譜』に依って示せば


大織冠鎌足--淡海公不比等--贈太政大臣房前--贈太政大臣内麿--
贈太政大臣冬嗣--忠仁公良房--昭宣公基經--貞信公忠平--楞厳院殿
師輔--法興院殿兼家--法成寺殿道長--権大納言長家--大納言忠家--
鎮守府将軍下野守忠實--主殿頭家信--左馬助斉宮忠房--下野守道房
であり、


道房が小野寺大法師義寛と号した由緒を詳しく示せば道房は母方の
祖父、小野宮中納言藤原資信の猶子として養育され家号を「小野宮」
と称されましたが平治の乱(1159)に権中納言右衛門督信頼卿に縁
座して敗れ仁和寺に於いて剃髪し「小野宮」に因んで小野寺入道と
称したのが初めであり翌、永暦元年三月十一日下野国に流罪となり
仁安元年(1166)三月罪を免じられました。


この道房こと小野寺大法師義寛が開発領主となったので下野国、
『小野寺保』が成立した訳であります。


一般に義寛が小野寺の領主になったので地名を冒して「小野寺」と
称したと云うのは誤りであり小野寺地方は小野寺入道大法師義寛の
開発以前は「雄山郷」と呼ばれておりました。


また巷間に伝わる『小野寺系図』では義寛を実名として記載してお
りますが、義寛が入道号であったことは現在、栃木県下都賀郡岩舟
町大字小野寺の住林寺に安置の栃木県指定文化財の寿永三年(1184)
五月二十四日造立の阿弥陀坐像の胎内銘に


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現世安穏 後世善処

敬白   奉造三尺観世□


□像一体 、、、







      ( 続きは小野寺直氏の著書「世界を救う一閻浮提の
        大本尊立つ・日蓮法華経の正統解釈」p168を参照 )





とあり義寛は実名ではなく入道号であったことを明らかに示してお
ります。


この義寛の号を実名として巷間の『小野寺系譜』には示されており
私の知る範囲で義寛を入道号としてその実名を「道房」として記録
は私の所持する『小野寺系譜』と『日目上人御伝土代』の記録のみ
であります。


当然、私の所持する『家譜』と『秋田県史』『岩手県史』
『宮城県史』『栃木県史』等に収録されている『小野寺譜』とは
全く相違しており、私の所持する「譜」と証明する文献として足利
尊氏より足利義政に至る歴代室町将軍の袖判御教書が現存しており
ます。


これ等を踏まえて『日目上人御伝土代』の筆者は日影師と推測する
ものであります。


この入道義寛が足利散位藤原家綱の娘の腹に設けたのが『平家物語』
や『曽我物語』で有名な禅師太郎道綱でありこの道綱が日目上人の
曽祖父に当ります。


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一般の史書に道綱が承久の宇治川合戦に生害した旨を載せておりま
すがそれは誤りで『吾妻鏡』の承久三年(1221)六月十四日『宇治
橋合戦 越 河懸時御方人々死日記』の中に


           小野寺中務丞


と載せられている人物こそ、道綱の嫡男であり日目上人の祖父に
当たる小野寺太郎重房なのであります。


従来なぜこの小野寺中務丞を道綱として言い伝えて来たかと云いま
すと、それは『承久記』の読み誤りから生じたのであります。


『承久記』には


「若狭兵部入道 関左衛門尉 小野寺中務丞 佐嶋四郎四騎打入て
渡けるが 若き者共の馬強なるは 河を守らへて能渡す間子細なし

関左衛門尉入道、身は老者なり 馬は弱し 被 押落 下り成けれ
ば 聟の佐嶋四郎難見捨 思て取て返し」


と記している訳ですから当然小野寺中務丞が老武者とは述べられて
いず『吾妻鏡』には「同年六月十四日宇治合戦討敵数人」の目録に
道綱の舎弟である小野寺秀道が「小野寺左衛門入道 内一人手討」


と既に入道の躰であった事を示しているのでありますからその舎兄
である道綱が当然若武者として『承久記』に述べられる訳はありえ
ないのであります。


なぜならば仮に父善寛入道四十歳の子としても道綱は当年五十九歳
に成るのであります。


この後『吾妻鏡』には小野寺小次郎左衛門尉道業、同四郎左衛門尉
道時の名前が散見し、これ等の人々は秀道の男子である事が家譜に
明らかで承久の乱で生害した小野寺中務丞とは日目上人の祖父重房
である事があきらかになりました。


即ち日目上人の祖父重房は小野寺氏第四代の総領職に在った人物で
あります。


この祖父小野寺中務丞重房が生害した事件が走湯山で学ぶ少年に取
って重大な関心事に発展して行った事は当時の仏教の在り方として
は当然の事であったと思われます。


即ち日蓮大聖人が


「承久の合戦の御時は天台の座主、慈円・仁和寺の御室・三井寺の
高僧等を相催して日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う

          (中略)


頼朝と義時との御魂・御名・御姓おばかきつけて諸尊・諸神等の御
足の下にふませまいらせていのりしかばいかにもらすべしともみえ
ざりしに・いかとして一年一月の延びずしてわずか二日一日には滅
び給いける」


と云う事実は走湯山で学ぶ小野寺五郎(後の日目上人)の根本の
疑問であり、これに対しての日蓮大聖人の答えは


  「我が面を見る事は明鏡によるべし 国土の盛衰を計ることは
   仏鏡にはすぐべからず」


で当然日興上人が走湯山の小野寺五郎にもたらした答えも同じで
あったと考えられます。


今、再び真言・天台亜流の加持祈祷の新宗教が処々で蠢き始め話題
に欠く事ない現状でありますが歴史は」繰り返すで既にその結末は
明らかなのであります。


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『御伝土代』には

「同(文永)十一年きのへいぬ日興に値い奉り法華を聴聞し即時に
 解て信力強盛十五の歳なり」


とあり「法華を聴聞し即時に解て」の意味する所は「唯仏与仏」の
義であります。


此の年の十二月、日蓮大聖人は『法華経如来寿量品』の次第に随い
「擣し和合」(「し」の字は変換不能)なして弟師達に示されたの
が「紙本の控字大本尊」であります。


『如来寿量品』には此の紙本の大本尊を


   「此大良薬色香美味皆悉具足」と


示しておりますが


     「諸子中不失心者」と


ありますようにこれを保ち得たのは日興門流のみであり故に経には


   「見此良薬色香倶好即便服之病盡除愈」と


あるのです。


他の日蓮大聖人の弟師達は


 「餘失心者見其父来雖亦歓喜門訊求索治病然與其薬而不肯服」


だったのであります。


その原因は


      「毒気深入失本心故」にあり、結果


        「於此好色香薬而謂不美」


だったのであります。故に


  「父作是念此子可愍為毒所中心皆転倒雖見我喜求索救療如是
   (紙本の大本尊)而不肯服我今当設方便(方【いた】に便
   【たより】を設る)

   令服此薬(お形木本因妙大本尊)即作是言汝等(本出師以下)
   当知 我(日蓮)今衰老死時已至 是好良薬(本因妙大本尊)
   今留在此(日目) 汝(衆生)可取服」と


『如来寿量品』の文底は示しているのであり故に日目上人をして


        「一閻浮提御座主」


と称し伝えて来たのであります。


後醍醐天皇は当時は知識と対象という以外、特に注意を持たれなか
った『法華経』と法華経を根本とした『立正安国』を崩御を目前に
して自らの生涯を深く反省した上であえて法華に帰依し朕が子孫の
今後進むべき根本の道は日蓮法華の王佛冥合にあることを崩御の体
を以って示された訳であり、


その皇胤から日蓮法華の日文字尊号を名乗る親王が輩出されても何
の不思議もない訳であります。


また、北朝の正史『晴富宿禰記』に示されるところの西陣南帝、
出羽王が洛北、小野郷の高野の地に隠居をなぜ所望したかという疑
問もこれで解明することができるのであります。


即ち、この南朝皇胤は当時、都の近郷で最も日蓮法華の信仰のさか
んであった高野の松崎の地を望まれた訳であります。


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故にその皇胤には一時、仮称を松崎と称した人々が存在してお
ります。


また、出羽王は洛北、小野郷に於いて法躰入道された事により小野寺
弘慶と称されたと『小野寺系図』は伝えてをり、出羽王の夫人は南朝
の旗頭千福小野寺中務少輔の娘と記しております。


要するに小野寺左京のみならず歴代の南朝皇胤の中に後醍醐天皇の
意思に従って金輪聖王の思想を日蓮法華によって実現せんと構想し
た人々がいたのであります。


話が前後しますが、南主、弘慶天皇夫人、千福小野寺中務少輔は、
実はあの日蓮大聖人の弟師日目上人を輩出した新田小野寺氏の後胤
でありました。


なおかつ、日目上人は日興上人とともに俗にいう日蓮法華の富士門
の重鎮であり、そして、日蓮大聖人より日蓮が魂魄


           「本因妙大本尊」


を託された唯一の人であります。


日目上人は「本因妙大本尊」を根本とした三大秘法を整足させる為
に日蓮大聖人の御遺命に随って後醍醐天皇に奏聞し、二位法印に敍
され国師に準じられ


            「紫子袖」


を賜ったその人であります。



そうして、日目上人の甥、小野寺孫五郎道章は建武の中興に後醍醐
天皇方に加勢して肥後守に敍任され、その子顕道は後村上天皇より
忠孝を賞され度々綸旨を賜っております。


こうした後醍醐天皇と小野寺氏の関係、南朝と小野寺氏の密接な関
係を見ると南朝皇胤が千福小野寺氏を頼みとして出羽に入部し、
北朝方から出羽王と呼ばれた事もうなずけましょう。


逆にこのような事情が存在したので、王佛冥合による仏国土の実現
を至上命題と考えた南朝皇胤などはむしろ千福小野寺氏を大いに頼
りにしていた訳であります。


後に南朝の皇胤が千福小野寺氏の庇護により仮称小野寺氏を名乗る
に至ったことは以上の経緯を鑑みると自然の成り行きであったと言
えましょう。


故に小野寺左京が日蓮大聖人を佛と捉えて日蓮法華を宣べ弘めんと
したこと謎も、室町時代から江戸時代にかけて正統大石寺が


       「三種の神器を日蓮の三大秘法」


として説教していたことも、また駿東郡東部の「東台かいと」に
居住していた小野寺左京が南朝の皇胤であると同時に日目上人の
血脈を受け、


        正統「大石寺三箇の重宝」


を秘蔵していた人物という事も、その特殊な事情の存在によって
解明することが可能となったのであります。


なお、小野寺左京の「左京」は南主小野寺初代、東光院弘慶天皇が
隠棲された小野郷は都の「左京」に当たることにより代々


          「小野寺左京」


と称されたのであります。


そして大泉寺は本来日蓮法華、本門法華の「大泉寺」なのであります。


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